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会話をすべき近い存在

今までもこれからも、自分の癖と付き合っていくんだと思う。

これまで色々な踊りを踊らせてもらい、色んな振付師ともたくさん仕事をしてきた。作品それぞれにもその振付師の癖があり、世界があり、情報と感情にあふれていた。

その世界の一部分となり、文字になり、音になり、作品の表情を作っていくうちに、自分にも癖があるのが自ずとわかってくる。得意、不得意は勿論のことだが、流れや動きのタイミング、さらには属性までも見えてくるんじゃないかと思える。

大地に根を張る木のようなズッシリ系、空気に舞う羽のようなフワリ系、水のように形を変えながらもその存在感を流しだすサラリ系、キャンプの中心で燃え盛る炎のようなメラメラ系。

それ以外にも勿論、動きや身体には癖が存在している。作品にもその芸術家が生み出す癖が隠れているようで、実は如実に丸裸を表していると思う。


ただ、今感じている癖はそういうものではなく、身体に凝り固まってできてしまった癖の話だ。

この癖は、本当に厄介だと思う。それは、自分ではこの癖こそが自然の形だと誤解してしまっているからだろう。

意識していない状態が自然ではない。間違いを肯定してしまって、頑固に固まっている『自然体』を鵜呑みにしているから、頭も硬く頑固になって間違いだと認めてあげれなくなってしまうのだろう。

さらに、今までできなかったからこれからもできない。これも癖を自然体だと思い、努力をしなくなってしまった結果なのかもしれない。


体の癖というのは直らない。いや、直らないのが普通だともう考えたほうが効率がいいのかもしれない。

いや、これは『諦める』という意味でつかってはいけない。そこがミソなのだと思う。


過去に一度、自分も癖を直そうと努力し、一年ほどかけて直ったと思った癖もあった。だがそれは勘違いであり、身体と真剣に向き合わなくなった瞬間から、意識を自分の身体の会話から遠ざけたときからまた、徐々に元に戻ってしまうのだ。

調子が悪くなったり痛みを感じる。それが当たり前という事実にも何通りかの問題点がある。ただ、一番厄介なものの一つに、慢性のものがある。それを引き起こし、直りにくいものの原因の一つを癖で固まった痛みもあるのではないだろうか。


本当に何度、身体と会話をしてきたかはわからない。痛みの原因、凝りと硬直の原因。ただただマッサージをしたりストレッチをするだけでは直らない癖。

自分の体を入れ替えることはできない。この体と老いを感じていくしかないのだから、できれば会話をする努力は一生していくべきだろう。「もう大丈夫」は危険だ。忘れるべきではない


意識、本当にこれが鍵となる。同じ動きをしていても意識が違えば意味をなくすときもある。ただ単調に動けば良いのではない。どこをどう動かしているのかと意識をすれば、表情も変われば体も反応してくれる。

身体は一生を共にする友人。意識を持って、会話をしよう

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