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腐った根っこと胡蝶蘭

いつの間にここまで来たのだろうか。思い返せば長い各停電車を経由してきたのに、今思えば短い一瞬の夢を新幹線で突っ走ってきたのかもと勘違いしてしまいそうになる

本当に生きているのはこの瞬間だけ、どれだけの経験をしてきたのもその瞬間に行った現在を歩んだから。僕の足跡にはもう雨も降り、水に流され、太陽に照らされ、砂となって吹かれてしまった後のようだ


現在、僕は無職に等しい。誰かに庇護されようとも貶されようとも最深部の決定権で今があるのであれば、それは僕の責任だ。仕事に左右される人生に流されても、その船を出したのは自分だ。これにケチをつけるのは問題外だ

母国から飛び出してからもう、どれくらい経過しただろう。後ろを振り返るしかもう未来がないのかと誤解しているかのような考えだが、今、その分岐点に立たされている。それに本心から気がついたのが、小雨の降り止まない日に遠い場所からそれぞれがつながるミーティングのなか、シーズンの終わりと次のシーズンの予定を話あっていたときだった


皆んな様々な夢と現実を天秤にかけて生命をつなげてきた。生きているものであれば誰でも自分を中心として世界を見て、探してこの世を探ってきたはずだ

どういう状況で生まれ、自分はどういう個体なのか。何をしていけば自分の本性の裏側にびしっと張り付いた願望を叶えられるのか。そしてそれは可能なのか、それとも墓場まで持っていってしまうものなのか


深く深く考える機会なんて相当ない。今の忙しさに理って(ことわって)これかのことなんて、来たその時に考えるしかないと高を括っていたのに、思わぬ時間ができてしまった。しかもそれは、ほぼ全ての人が同時に経験をしたのだから問答無用の押しつけである

あることないこと考え心配し、どうしようと方針を作ろうとしていたときにできてしまった時間。そこには過去のフラッシュバックが通過する。過去の栄光だ


ただあの小雨の日、膨大な走馬灯のような思いを一粒の滴が一瞬にして吹き飛ばしてしまった。それが今の僕には新鮮でしかならない

今までお世話になったカンパニー、安心できる仲間と作り上げてきた詩を綴る作品の数々、切磋琢磨した時間と経験。この不安定な時だからこそ本当はしがみついておかなければいけないのに、僕の気持ちは真逆な答えを出した。本当に、「ふっ」と感じてしまったのだ

「ああ、僕の居場所はもうここにはないんだな」と


本心はこうだ、「どれだけこの時を待っていたのかな」。

出会うべきして出会った仲間と師匠というべき人と作り上げてきた関係なのに、いつからかこの一陣の風が精神を洗ってくれないかと待っていた。でもその吹っ切れた感情はこうも囁くのだ

「ああ、そうか。僕がここでやるべきことはもうないんだな」と。

この答えに深い意味は本当にはない。まだもう少し続くであろう仕事はもちろんやりこなすだろうが、いつの間にか中心が変わっていたことに気がつかなかった


あの日に一人で声を発することなくじっと皆んなの話を聴きながら、僕の心は晴々としていた。掴みかけた仲間の根っこを、土で見えなかった腐った根っこを切る時がそこにきていた

決して悪いとは思わない。胡蝶蘭の生命を失った根っこを処理していた時のことを思い出す。萎れて生命を失っていた葉っぱを落とし、強く息づいた葉っぱが顔をだし、さらに新しい根っこを出して勢いよくまた花を付け出す。生命のサイクルはここにもある

今度は僕の番だ。惜しみなく出してきた根っこはもう枯れている。新しい根っこを生やす勇気とわくわくを信じて進むしかない・・・

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