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【宗教2世ごろごろケア日記15】 学校の先生のための”宗教2世支援マニュアル”


 前回の記事で、「現在、宗教環境下にあるこどもたち」に、何かを届けるには、プッシュ型の情報提供が必要であることをお話したと思います。

 ある程度年齢的に自立していたり、金銭的に自活している「大人」については、自分の力で何らかの支援機関や、相談機関に繋がることができますが、現実問題として18歳以下で、いわゆる「保護者の監督下」にある状態のこどもについては、現状では

「保護者の有する、信教の自由のもとで、その考え方に基づいて養育される」

ことのほうが、現状としては優先されているからです。(親の教育権に、信教の自由が含まれるという考え方)


 ところがまた一方で、「こどもにも信教の自由がある」ということも明確なものとされ、こどもの権利条約などでは、それも明記されています。


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 このあたりはなかなか難しいのですが、こどもの場合は「未熟・あるいは未発達」であるとされ、基本的人権を有しながら「その行使が制限される場合がありうる」という法的解釈も十分にありえます。だからこそ18歳未満は成人ではなく、結局保護者の保護監督権が優先されてしまうわけですね。


 実際問題として、これを法学論争で争うならば「こどもの最善を侵害するような教義に基づく強制」などは、「こどもの持つ基本的人権としての信教の自由に反する」という結論が出るでしょうが、各事例ごとに仔細を判定してゆくような、緻密な作業が求められることになると思われます。


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 さて、こうした緻密な法学解釈は、現実の家庭問題としては、あまり実際には機能しません。ある家庭の親子で、信教の自由について裁判が行われ、それが最高裁まで争われて一定の判例が出る、といったことがあればまた別でしょうが、2023年現在としては、

「ゆるやかに親の方針が優先されている事態がまかり通っているので、親の宗教に反するような情報はこどもたちには届きにくい」

ということが大半の宗教環境下にある家庭で起きている現状と言えるでしょう。


 さて、これらのざっくりとした構造を踏まえて、一番最前線でそうした「親子関係」「家庭環境」にふれる可能性がある学校の教師は、どのようにこの問題を捉えればよいのでしょうか。


 実際にこんなnoteを書いておられる方もいました。


 まさにこのとおり、教室に宗教2世がいたら、教師はどうしたらいいのでしょうか?

 とくにミッション・スクールなどの「宗教立学校」ではない場合における、たいていの「公立学校」については、「公教育の宗教的中立性」が求められるため、実はとても興味深いことでありながら

「親の信教の自由、子どもの信教の自由、のその内側に踏み込むことは望ましくない」

というのが正解にあたります。


 そう!平たくいえば、どちらの味方もしない、という中立性が、実は教師には求められているわけです。もちろん、教養としての宗教的知識に触れることは授業などの場で、あってしかるべきなのですが、

「親の側の信仰を否定する、あるいはこどもの側の信仰を否定する」

というジャッジメントは、してはいけないのです。これは、もし教師がやってしまうと「憲法に反する行為」とみなされる可能性もあるからです。


 ここまで読むと、普通の教師であれば「ほえー!なんだかめんどくさいなあ!関わりたくないなあ!」と思うかもしれません。それぞれの宗教の教えや、教義についてもちろん詳しいわけではないし、そして宗教的側面に絡んでしまうと、なんだかややこしいことになりそうだからですね。


 けれど、結論から言えば、この問題はシンプルです。特に「学校の教師」「スクールカウンセラー」あるいは「教育機関職員」といった公教育に携わるものの立場から見たとき、「宗教2世問題」への処方箋はとても単純にまるめこむことができます。

 それは

「虐待に相当するかどうか」

という一点です。

 現在の政府・行政の考え方は、宗教的バックグラウンドについてはもちろん、把握・理解はしているものの、直接的にはそこには踏み込まず、

「その行為が不法行為すなわち虐待であれば、”理由のいかんを問わず”ストップさせる」

という一点に重きをおいています。ですから、公教育の教職員としては、教義の内容には踏み込まず、「虐待」という目線でのみ、対応することが可能です。

 つまり、もとから宗教関係なく起こる「家庭内の虐待」事案として対応してかまわない、ということになるでしょう。

 その意味では、虐待事例、事案の発見・把握から「管理職への報告」「教育委員会への報告」「児童相談所への通告」「スクールカウンセラー等との連携」という通常の動きで、十分対応可能と思われます。

 もちろん、該当家庭、該当生徒等とも聞き取りや話し会いの場が多々開かれるかもしれませんが、「教義うんぬんについては、棚上げする」ことが可能です。そこは、一切関係ない、というスタンスでいても大丈夫だと思います。

 このあたりの考え方は、

の記事が参考になると思います。


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 さて、こうして「教師」という立場でこの問題を見たとき、最前線で何ができて、どう動くかは、あるていどスッキリ整理できたと思いますが、実はこれだけでは「こども」は置いてけぼりになっています。

 あるいは「親」のほうも、置いてけぼりになっていることは否めません。

 

 もちろん、公教育や公的行政としては「宗教的中立」であることが求められますから、それ以上の踏み込みや、「親子ともどもへのケア」はできないわけですが、実際にはこうした親子には

「宗教的背景をある程度理解した、仲介役・コーディネーター」

のような人たちが関わってゆくことが望ましいと思います。

 心理士やカウンセラーの側からのアプローチも考えられるでしょうし、宗教学者的なアプローチでもよいかもしれません。

 それは私的な存在でも構わないと思いますが、なんらかの形でそうした人材が育成されたり、実際に「親子」の仲介役として互いの話の聞き役になれれば、よいのかもしれません。

(あるいは教職員向けに、こうした人材からの、ある程度のレクチャーなどがあってもよいでしょう)


 今後の制度の充実に期待したいところです。


(了)


 





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