『こちらあみ子』

久々に更新しますね。忘れていたわけではないのです。モチベーションが上がらなかったのです。

最近ですが、Netflixに入りました。ようやくです。それで『ブルーピリオド』を観てまして、そういえば、言葉にしたり、形にしないと感性が失われていくのです。プルーストよろしく『失われた時を求めて』なのだな。って思い、久々に筆を執りました。

私の失われた時を求めていくと、大学時代に心理学を学んでおりました。心理学を学んだことがない人は「人の心が読めるのか」なんて言いますが、読めない理由を探す学問なのです。

もし、心が読めたとしたら、あみ子を理解できる世界があったのでしょう。


心理学の分野に「発達心理学」というものがあります。簡単に言うと、人が年を取るごとによくある心理状態の流れを研究したり、そのよくある心理状態から外れた人たちを研究する学問です。前者は反抗期の子供と死期が迫った高齢者は俗に言う「わがまま」に見えること。後者はADHDとかアスペルガー症候群とかです。

あみ子はまさしく「発達障害」にあたる子でしょう。

作品中であみ子は異質な存在です。カメラが常に引いたようにあみ子とその他を映しています。自分の好き嫌いがはっきりしている所。人の行間が読めない所。好きなものに執着する所。観ていてそうなんだ。とすぐに気づけるほどです。割と誰もがでしょうね。
誕生日のロウソクを消すことよりももらったばかりのプレゼントが気になる。同級生と会話がちぐはぐにつながる。流産した母親のために「弟のお墓」を作る。

大学時代の発達心理学の講師は発達障害児にはサポートが必要であると話していました。サポートは「適切な環境を用意することで、それは普通学級に無理に通わせることではない」もし、それを両親が選択したときは「一種のネグレクトである。」そう言っていました。

また精神科や心療内科に通うべき人は「自分の心を保てない人」と「他者がその人に関わることで心を保てなくなる人」でもあります。

あみ子は小児科か精神科に行き、正しい方向に行けなかった発達障害者として悲しい物語なのです。

もし家族にあみ子がいたときに、家族だけで育てることは難しいことでしょう。父親のように聞いているようで聞いてないような態度で普段接したり、母親のように自分を保てない状態でも無視せずに常に接することができるでしょうか。言葉で言うのは簡単かもしれないですが、私は難しいと思います。

そうして見ていったときに、お兄ちゃんとあみ子の距離感は変わらないように見えるのです。

父親もクラスメイトも誰も信じなかったベランダからの謎の声もあの日は返ってこなかったトランシーバーの応答も何年もの月日をかけてお兄ちゃんには聞こえていたのでしょう。

近すぎると、発達障害は接しづらいものです。発達障害のある子の養護施設を営んでいる施設長は「この子たちにイライラしないで常に接することができたスタッフは居なかった」という言葉を以前に聞いたことがあります。

これをただの映画として終わらせるのはもったいない。お兄ちゃんのグレ方とかはギャグっぽいのももったいない。

発達障害児のリアルとして子供を持ちたい人に一度、観て欲しい。そう思う名作でした。

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