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掌篇小説『ホテル・ミロアール』

二つの硝子ケース、それぞれに豪奢な刺繍耀くマネキンが。一方は燕尾服、一方はイヴニングドレス姿。燕尾服の釦が向って左側に嵌められている。二人を両脇におき、サーキュラー階段が天にのびゆく。

私は、鏡の世界にいて。

ロビー左側、誰もいないフロントを過ぎ、誰もいない大食堂へ。西寄りの陽をあび、いつしかテーブルにおかれた早めのランチを食べる。かわいたステーキ。
ロビー右側の誰もいないケーキの店からふたつ拝借し、天鵞絨の階段をのぼり。

フロントからぬすんだ鍵でドアを開ける。長い廊下と、もう一枚ドアを抜ければ、いるのは木製車椅子に座る御姉様。モスリンのサマードレス。象牙色の地に青い草花や鳥のシルエットが舞う。その軽やかさに反し、マネキンよりも造られた風な美しい微笑。左眼の泣き黒子だけが、人間味を醸す。本当は右だけれど。
テーブルにケーキをおくと、御姉様は椅子から起き、儚い身をふらつかせ、紅茶を淹れる。
私は紫のムースと、ニルギリの紅茶を、それぞれひとくち。
……すると、視界が荒れ、胃が燃え、赤い血を涎のように垂らし、伏す。
御姉様は左手でカップをもち、微笑みの儘、窓を眺め。

目覚める。ベッドにいる。おなじホテルであるのに御姉様の部屋よりずっと狭い、セックスの為だけにあるようなシングルルーム。
目的に沿い? 褐色の男と遊戯。もちあげる私の腿よりふとい右腕にケロイドがはしり、薬指にリング。むろん、本当はいずれも左。壁際、蓄音機があり、レコードが反時計回りでうごいている。ラッパから逆さまのメロディーが流れ。不快さが心を躯をよけいに狂わせ、私は男にかぶりつく。ホテルのステーキよりムースより、あまく、塩辛く、歯応えよく、ジューシィで、中毒性を帯びる。壁紙のありふれた縦縞が踊るように、逆さまの歌やリズムを嗤うように歪み……
男を果てさせてやりたいのに、さきに私が意識を失う。

鏡の世界にいて。
いつだったか、ホテルの何処かの姿見より入りこみ、帰れない。

気づけば又、男女のマネキンが光るロビーに戻る。サーキュラー階段を駈け、御姉様の部屋へ。
私は御姉様を車椅子ごと床に倒し、もっとも穢れた色であろう濃密なガトーショコラを顔や髪やサマードレスに擦りつけ、毒入りニルギリも浴びせ。御姉様はそれでも微笑みの儘、心の在処は知れぬが、左の泣き黒子だけ見せ、決して私に視線を遣らぬ。もっとも穢れたものと蔑むなら、云え。

セックスの部屋へゆき。大食堂から持ちだしたステーキナイフで男を刺し。
だが急所を外したか、男は目的を果たさんと、呻きながら眼球を葡萄の如く剥きながら、右のケロイドをリングを歪めながら、血を水玉、或いはピッチャーのミルクのように溢しながら、極上のソースに彩られた私の肉を貪る。
蓄音機にも血がはね、感応した風に逆さの曲が速まったり弛んだり。
さきに狂死するのは、結局私。

鏡の世界にいて。帰れない。

否、本当は、帰り方を知っている。




(1198字)




©2022TSURUOMUKAWA


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