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掌篇小説『花の囁き』(618字)

二階のちいさな露台から、貴男を見ます。あまり乗り出すと母様に叱られるので、そっと。

陽光から生れたような貴男を見ることが、胸の高鳴りの序奏ではありません。

チャリンチャリン。
貴男は音で、蒲団に眠る私へお報せします。腹掛にいれた小銭、或いはしなやかな股引の脚で漕ぐ自転車の鈴でしょうか……いいえきっと、貴男が奏でる、魂の鈴なのでしょう。
チャリンチャリン。
涼しく慰撫するような音が、耳に木霊します。
私はひりひりする畳を這いずり、窓へと。

鉢の瑠璃茉莉の隙間より見る、鈴の如き金色の肌。見おろす所為かしら、何時も微笑んでいる唇。額の汗は弥勒様の光沢です。触れてみたい、御疲れを癒してさしあげたいと思うのです。私も汗かきですけれど。

何時かお逢いできるかしら。歩みも話しも儘ならぬ私も、何時か。『婦人グラフ』に描かれた麗人となって、何気ないフリで貴男を待ち焦がれることが叶うでしょうか……

「薫ちゃん、お窓は駄目よ。御湿かえましょね……

太郎さん? 一寸待って。お茶飲んで行って頂戴な」

母様が私へぶっきら棒に、そして階下へやさしく、呼びかけます。私は蒲団に縛りつける風に戻され、もう貴男が見えず、母様への貴男の御返事も聞えませんでしたが……

チャリンチャリン。
貴男の鈴の音を、何時もより近く、あろうことか、私のすぐ真下に、感じます。

私は澄明になるばかりの音、はじめて知る貴男の名とともに、コイガタキ、という異境に咲く花みたいな言葉を、ふかく胸に刻んだのです。





©2022TSURUOMUKAWA


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