掌篇小説『ホーム』(548字)
繋がらぬ受話器が掌からおち、首を吊るみたいに垂れる。
あの人は家にいない。私を探しているかしら。或いは、私を忘れに出かけたかしら。
ホームでは終電が、慌てるような戯けるような人の群を呑み、去る。鳩たちも妙に騒がしく羽搏き何処かへ帰る。駅も、消灯。
風さえ凍りつく闇、見えないベンチに座り過したのは数分、数時間?
滲みだすように現れ停る、型の旧い列車。錆びた行先表示板に眼を凝らせば『試運転』とあるが。フィラメント電球が橙に照らす車内には、ぽつぽつ、乗客の姿。
いちども私に微笑まなかった祖母、近所で遊んだ雑種犬、制服の儘いる同級生の男の子、楽屋を訪ねると沢山話してくれた憧れの舞台女優……
……浮世に既にいない筈の彼等は、おのおの距離をあけロングシートに。私を視るような、素知らぬ顔のような。
女優がドレスの腕に抱くのは、硝子でできた写実的な仔兎。私が割ってしまった(筈の)宝物が、ヒビひとつなく。
兎の放つ光に吸われてか、私は扉もすりぬけ、入ってゆく。
誰か、階段を駈けてくる。あの人かしら。窓に浮ぶ、華奢な肩やコートの輪郭。嗄れた声で叫ぶのは、私の名かしら。うごきだす列車の音に紛れ、判らない。橙の温りに、記憶も融けゆく。もうすこし、はやく来てくれていたら、とだけ思う。
赫に染まる、兎の眼。
©2023TSURUOMUKAWA
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