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短篇小説『扉の冬』

 雪をはじめに視たのは、夫の部屋のなか。

 もう、そろそろだろうか、と、机にひらいた儘、埃を薄衣のように纏った雑誌等を、さわりはじめた。

 木製のレコード棚から出てきた、夫のもっとも好んだ旧い女ジャズ歌手の盤。映画女優でもあった婀娜っぽい表情、たわわな胸の谷迄描かれたジャケット。
「ルックスで択んだんじゃない」
 と云いつつ、常に傍らにおき、エコーつよめの掠れた唄声を床に寝そべり聴いていた……と、思い出していたら。マットなカラー写真の女が、眸の碧、巻髪のゴールド、と、ひとつずつ、ひとつずつ、色をなくし。ついには剥きだしの肌も、血を吸われた風にモノクロへと変貌してゆき。
 それは私の掌で温度迄も……なくすどころでない、持ちつづけることさえ辛いほどにつめたくなり。
 肌理こまかく、しかし氷とちがい何処か手ざわりやわらかな……所謂、真白な、雪とよばれるものとなった。

 雪……室内で、突如湧いた、雪。

 熟れた唇も乳房も、カメオの浮彫さながらの、純白の麗人像……だがそれも室内では命儚く、ひび割れ崩れるかたち。床板におちた。
 雪を視る。存外はやく融け、水となる。
 さらに面妖なのは、融けきった瞬間、歌手の顔の造作、声、名前さえも忘れてしまったこと。音楽を嗜まぬ私の耳に軀に、否が応でもねじこめられ覚えた曲たちでさえ……雪とおなじに、音符の結晶をうしない、消えた。

 それから、夫の煙草の吸い殻や、屑籠にあった空箱も、手にふれ少しすると雪になり、床で融け……夜更けでも私が買いに出ることもあったその銘柄をデザインを、はじめからアイディアさえ生れていなかった物のように、真白に、忘れた。

 夫が戻らなくなり、三年が過ぎた頃だった。

 ひとまず、帳面と鉛筆をもち、夫を思い起こさせる何かが私の手で白い雪となれば即座に、書き留めた。祀るように飾ったいちどだけホールインワンをきめた際のドライバー、寒い日に家で着ていたラズベリー色の妙に女っぽいセーター、飲み口がかけても愛用していた、スヌーピーの偽物が描かれたマグカップ、「試しに」と私を撮ったピンボケのポラロイド写真群と、以後いちども使っていないカメラ……それらがすべて、ふれてほどなくして、雪の像に。そして帳面に融けこむ一行か数行の物語の破片となってしまった。罫線のないうっすらブラウンがかった紙、さわり慣れぬ雪による指の痺れと濡れて歪んだ文字のみが、物語に質感を遺す。

 ……さほど、多くはなかった。数日にわたり部屋をさわりつづけたが、雪となったものは、さほど。
 夫とは親類の勧めで出逢い、たがいに「厭ではない」という謐かな空気のもと夫婦となり、子供もなかった所為か、何かがあらたに脈打つでも、澱がつもるでもなく、薄暗がりの角に貼られた儘ある二人芝居のポスターのように暮しはつづき。九年を経た初冬の日、夫は突如、帰らなくなった。以後ひとり過ごした三年間も、アパートの広さだとか「厭ではない」という空気は、じぶんでもちょっと不気味なほど、変らなかった。ポスターの二人芝居は既に終了していたと云うよりも、はじめから企画倒れの幻であったように、思え。

 夫との多くない思い出が、雪となる……夫をつめたく忘れることへの罪悪感が映しだす、それこそ幻だろうか? たしかに濡れている、床の木目をゆらす澄んだ雪融け水を拭きつつ、己の心と軀が擦れあったり遠のいたりするのを、他人事のように眺める。

 帳面に書き留めるのは、夫を忘れたくないからでは、ない。信介さんの為だった。
 私は義兄に、夫との婚約後に出逢ったその日から、惹かれていた。夫との出逢いを感触のうすい鈍角とするなら、信介さんはカーテンの隙間よりさす光、またはシビアな闇のようなもの。微睡みから目覚めた瞬間の、今が何時なのか、じぶんが何処の誰なのか、あまく混乱させつつ、現実をひりつかせる、そんな。

 兄弟は、おなじ服に誤って縫われた素材もおおきさもデザインも似つかぬ釦みたいで、私の視る限り、たがいにブランドも国籍も異とする者として、目線言葉ひとつ交さず。挙式後すぐの夫の遥か西への転勤、兄弟の両の親の早世も影響し、実家の染色工房を継いだ義兄と顔をあわせることは、誰もが黒い装いで塗りこめられるような場のみであった。数年の間隔をあけ逢う、黒の隙間より他と異質なしなやかさをたちのぼらせる信介さんは、隣に添う、視るたび輪郭をまるく淡くする彼の妻とは逆に、鑿で彫られるように陰翳をすこしずつ濃くしていた。仕事柄でもあるまいが、何処か青みがかった影。おおざっぱな夫とちがい、予知するように気遣いがさりげなく、それでいて怖いように私欲や無駄の視えぬ佇まいからも、眼をそらす術はなく。

 夫がいなくなってから、信介さんは独りで私を遥か西迄訪ね来た。誰からも「捜す」という意識がうすれて以降も、季節ごとの訪問が慣習となり。次に逢う時にも夫の話がふつうにできるよう、『夫の思い出』というシナリオを私は帳面に綴ったのである。きっと泪でにじんだと、晒せば世間に頓珍漢な憐れみを受けそうに文字がくねりゆれる、シナリオを。

 かつて闇にした部屋で、私のほそくあやうい文字に似た肢体で夫に抱かれていた時、獣の唸りめいた音符のありそうでなさそうな喘ぎと軀の薫りから、信介さんを想わなかったと云えば嘘になる。因果なことに、兄弟はひくく芯のある声質と、山小屋の風見鶏がはこぶ秋風のような素肌の薫りだけは、おなじだった。私は小屋の屋根に腰かけ紅葉の盛りをやや過ぎたグラデーションをあおいだ悪戯な少女にもどり、煙草でもトニックでも消しきれぬ野生の風を巧みにたぐり寄せる。
 そして誰のものか曖昧な背中や腕に、「今の時刻が何時ならよいか」と、指で円と長針と短針を、落書きする。カーテンの隙間よりさす光、もしくはこわい闇を、心に描きながら。

 悪戯の現場であったそのベッドは、私がふれても寝そべってみても、雪にはならなかった。

 ベルが鳴る。旧い黒電話。信介さんからだと、なんとなくわかる。
「僕です」
 夫とおなじ声が告げた。夫も電話をかけるときの第一声だけは何故か「僕です」で、いなくなった当初は混乱したものだ。そのあとはすぐ、信介さんとわかる言葉が流れだす。私にとって何よりそれは効き目のよいある種のカウンセリングであり、且つ禁欲的で悩ましい荒野の唄だった。受話器をもつ、指の節や爪の枠に染料の黝くこびりついた、ほそくも猛々しい手迄、想像できる。
 夫は家ではほとんど口をひらかなかったのに、外から電話でやたら喋るときがあった。
「課長は中村伸郎そっくりで嫌いだ」
「新しく入った女が団令子を肥らせたみたいなのでさ」
 云々。夫の職場のイメージも希薄で芸能人の名前にさえ疎い私に云ったところで埒もない話を、ベッドでの野性味とちがい、おおきな飼い犬が甘える風な声色で。外で起きた、或いは夫自身の起した何かが、私に電話をさせていたのだろうか……
 ……などと。夫とおなじ声をもちながら別の歌手を聴くが如く、己については寡黙を貫き唯私をいたわる信介さんの唄にすこし酔いつつ、カウンセラーと催眠術師のはざまをゆく風な巧みさに怯えつつ、私は過ぎし日の夫の電話をも、まるでレコードのA面B面を一緒に流すみたいに、思い起こしていた……

 ………指に、左耳に、憶えあるつめたさが、はしる。痛む。電気みたい。
 黒電話が、受話器から、渦を巻くコード、本体、ダイヤル迄、根を張るように、白に染まりはじめる。命も鼓動もない、遺骨にもちかい、白に。
 霞む、信介さんの声が。吹雪のむこうの幻みたいに、遠のき。
 いけない、と私は約束を不自然に早々に決め、受話器をおいた。

 しゃ、と、雪の音が響いた。

 プッシュホンの電話を買いなおした部屋に、信介さんを迎えいれる。飴色のコートを脱ぐと、淡いイエローの地に縦縞がはいったYシャツのひろい胸。黒服でいるときほどではないけれど、まなざしはやはり頽廃的に、ほんのり青い。
 いつもどおり、自身で染めた風呂敷につつんだ地元の菓子を、テーブルにおく。「うちみたいな襤褸工房」と謙遜し仕事の話も避けるが。白地に紺瑠璃が、にじむと云うより火柱をあげるような有り様は、こわくも美しく。
 うけとったコートから、年月を経てもやはり夫とおなじ秋風の薫りが仄かに……一瞬、義兄の持ち物も危うい? 雪となるのでは? と畏れたが、夫はブランド違いの釦であるし、まして暮しも肌も一寸たりとも擦れぬ私が、信介さんにおよぼす影響はなかろうと思いつつ、いちどとしてふれていない不思議、義兄について、帳面に一文字も記せぬ不思議も覚えた。
 それでも何か起きはしないかと……雪なんて、はんぶんは己の幻覚症状と思ってはいたものの、だからなお、夫のいた家で話すことに不安はあったが。
 信介さんも、夫との思い出に関しては、口数が少なく。

「いちばん一緒にいたのは疎開先でした。
 友達のない村であいつは、僕にくっついていました。
 ……夜でした。遠くの空、探照灯が一機を白く、映しました。それが何か子供ながらわかっていた僕は、背をむけ弟の手をひき走りました。道でなく軀ををはんぶん埋めた叢のなかを、不穏にざわめかせながら。ちらり弟を窺うとまだむこうを視ていて、『きれいだなぁ』、って。裂けそうなほどひらいた眼に、真白な光が蠢いていました。
 ………あいつ、大人になってからも、好きな女性ができるとあのときとおなじ眼をするんです。光の色も何故だか近い。あなたのときもそう。それを視ると、何だか可笑しいような怖ろしいような、妙な気持ちになってね」

「あなたのときも」は嘘だ。信介さんの優しさは優しいのに、何処かひりひりする手ざわり。弟である夫とも彼は、手を繋いでいたころから心はきっと離れた場所にいた気がする。パイロットも船乗りも考古学者も詩人も知らぬ遠い国、おそらくずっと秋か冬の、風ふく荒野。紺瑠璃の焰ゆれる。

 彼は彼で、黝く節くれた指を視せつつ、慈しむ風情でいて決して踏みこまぬ(寧ろ遠ざける)優秀なカウンセラー(或いは催眠術師)を演じきり、私は私で、帳面のシナリオどおり、泪も涸れ果てたふりをしてガランドウな思い出を、大根女優さながらにふたつみっつよっつ、披露して。
 観客のいない二人芝居の舞台に幕をおろしたのち、信介さんとともに家を出、役所の類へ付き添って貰い、終えてみれば、曇りがちの所為か刻にそぐわずもう夜の色だった。信介さんを駅迄送る。工房はそう空けられない。いつも日帰り。私は時計の針を描けない。

 駅へゆくには、おおきな鉄橋を渡る。冬でもさして寒さをおぼえぬ街といえ、何者にもさえぎられぬ自由な河風は身に沁みる。車道を過ぎるトラックの荷台から、使い終え粗く畳まれた段ボールが此方に落ちてきた。信介さんが私を庇い前にたつ。段ボールは私たちの視界を覆ったのち、欄干をこえ闇の河へと吸われゆく。
 視界が晴れると、この地域ではきわめてめずらしい、降るふつうの? 雪が、塵芥か灰のようにちらついていた。私のマフラーのうしろが垂れ、芸妓みたいに首が露わになっていたのを信介さんがさりげなくなおしてくれた。信号のない鉄橋を、車はたえず流星の如く過ぎてゆく。歩道をゆくのは我々のほか、ひとりもない。
「今年はじめての雪です。まさかこっちで視るとは」
 信介さんは微笑む。渇いた肌にうすく亀裂がはいったような笑み。眼には流星が映っていた。夫の眼の光とは色がちがうのだろうか。信介さんの、信介さんだけの国にも紺瑠璃の空より雪は降るのだろうか。
「それもあなたと、ふたりで視るとはね。思いもしなかった。だがこれ……か………」
 言葉がとぎれ。姿を視うしない。はっとした。響いた、出逢ってからはじめて聴いた「ふたり」という詞、私の項に幽かにふれた指のざらつきを、心と軀とに周回させているあいだに彼は……私の数歩うしろで、髪を、指を、耳を、頬を、ひとつずつ、ひとつずつ、色を死なせていたのだ。私が視たときには既に、飴色コートの下の軀が、歩く姿勢の儘とまり、紛うことなき、残酷な真白の像となっていた。やがて左膝が折れ、欄干にたおれかかり。私は何もできなかった。車ははげしいスピードで流れ去り、人もない。いたとて何もならない。唯そばに駈け寄り、屈みこむ。双眸の黒と、周りの青みだけはまだのこっている。星が白く流れていた。信介さんは、私を視た。雪となる前より浮彫となった感のある唇が、ふるえながらうごいた。音符のあるようなないような声を、読んだ。
「……………ふれて、ください。たのみます」
 彼は、心臓の発作か何かと思っているか、或いは。彼の頬を撫でた。唇が雪の粉を零しながら、微笑んだ。唇でふれることは択ばず、指でそっとなぞる。ほそい上唇と下唇は、かさなる時計の針。どうかこの刻の儘、うごかないでと、祈る。誰にとも知れず、それ以外の感情を殺し、唯つよく祈りだけをこめ。車の行き交いにより煌めいたり翳ったりをくりかえし克明にも、幻にも映る彼を、いちども瞬きせず、視つめた。
 ……どれほどの時間、誰からとも知れぬ赦しを得ていたのか。やがてひとつのこらず白となり……かたちを、なくした。今迄でもっともおおきな、壊れる雪の音を聴いた。嘲るみたいに空を、私たちの周りを舞う灰の雪と、もはや誰ともたぐり知れぬ薫りとともに、信介さんの雪に、水に、いつ迄もふれつづけた。

 夫も、雪になったのだろうか。

 夫も、信介さんも、私に何か求めていたのだとしたら、それは謐けさだったのか、或いは真逆に、総てを壊されることだったか。

 信介さんの捜索がはじまった。輪郭のまるく淡い儘在りつづける信介さんの妻は何も云わず、唯光のない眼で私を視た。

 私は消えた信介さんを、忘れていなかった。鉄橋のうえで帳面などひらかなくとも、憶えていた。
 ……否、果してそれがほんとうの記憶か、己で都合よくしたためた頓珍漢に憐れな物語か、それとも信介さんによる妖術なのかは、わからない。

 夫も信介さんも、はじめから、針のふれ方の異なるレコードの表裏。
 A面とB面、おなじ声の歌手であるようで別人の、国、および大陸さえ異なる雪景色を綴った、私の心と軀の溝を擦る、かと思えば蜃気楼めいた幻ゆれる彼方へと遠のきながら、周回しつづける唄なのかもしれない。
 それは、既に終ったプレイなのだろうか。それとも、無限に。それとも、私もいつか雪となり、崩れ去る迄。

 信介さんの鞄にあった、ちいさな写真集。彼の風呂敷につつんで、もっている。
 果して黝い指が此れを好んでめくったのかどうか、そこに炙りだされるのは、モノクロでないながら吸われたようにほぼ色をうしなった、水飛沫だとか、子供や女や老人や、ビル群や、花や木々。すこしもじっとしていないカメラによりそれらの万象は、紙面を縦へ横へ西へ東へ、疾走する。

 電話が鳴った。

 プッシュホンでは、ない。骨よりも白くなった、あの黒電話のベルの音。雪となり融ける前に私は、冷凍庫にいれたのだ。それが、鳴っている。扉をひらくと、信介さんが雪となった日の河風にも似た、自由にふきつけてくる冷気。それとともに、かたちを辛うじて留めた雪電話は、雪のみならず粗い氷の粒もデコレーションみたいに散りばめられ、煌めき。ベルの音も、まるで聖堂に於いて聴いているかと思うほど、底深く天高く、響く。
 受話器を素手にとり、左耳にあてた。

「僕です」

 唄がはじまる。





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