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コーポ

五月雨式に言葉が出てしまう。
後から付け加えたようなことばかりが、漏れ出る。
彼女の白い指先だけが、ぼぅっと浮かんで、グラスの中の蝋が、ぐにゃりと揺れた。
小さいレストランの机には、ブルケッタが真ん中に鎮座している。
トマトは真っ赤に熟れて、角がない。
かりっとトーストされたフランスパンの上にたらりとのっかっている。
一つだけ口に運んで、咀嚼する。
放置されかさかさしたパンが通り過ぎ、薄甘いトマトとオリーブオイルが、喉に膜を張る。
彼女は手をつけず、俯いている。
汗をかいたグラスは、二層に別れて、上澄のカフェオレは、土砂降り雨の味がする。
今日は別れ話をするために、私がここに呼んだ。
「きみちゃん、もう嫌いになったの?」
「夏織、ごめん。
嫌いじゃないよ。だけどさ、恋愛の対象では、なくなってしまった。
今自分の仕事もいっぱいいっぱいで。余裕がなくて。
私自身自分を生かすだけで精一杯だよ。
だし、同性同士の関係で、そういうことができなくなればどうしたって難しいよ。」
「もう本当に私にそういうことしたくならないの?」
夏織が、はらはらと泣いた。
と、同時に、私は消えてしまった欲を感じていた。
彼女を今すぐに抱きしめて、あの私たちの小さな巣に帰りたい。

彼女とは4年前に知り合った。
スーパーの片隅にある整骨院で私は働いていた。
午前の診療には、年配の患者さんが押し寄せる。
地域交流も担っている場でもあった。
待合室で、2人の年配女性の笑い声が聞こえる。
「あー鈴木さん元気だった?」
「あー高梨さんも!」
「もう腰が痛くて、かなわんわ。梅雨時期は嫌になるよ。あ、相棒みてる?水谷豊の演技が1番だわ。」 
「見てるみてる。第一シーズンがやっぱり好き。私も、膝にきてね。こういう時は電気あててもらって、きみ先生とこのマッサージが1番よ。そうそう、そういえば、これ食べる?」
井戸端会議が始まっていているのを、横目で見る。
高梨さんのお手製ゆず茶だ。
先生にもどうぞといただいたが、とても美味しかった。
自宅の庭で取れる柚子は、無農薬で、丁寧に処理された皮と柚子の果肉が絶妙で、氷砂糖と蜂蜜でじっくり作られたそれは見事な味だ。風邪も引かず、患者さんと向き合えているのもこのゆず茶のおかげだ。
私も後で飲もうと思いながら、低周波治療器のスポンジに水を含ませ、カルテを処理した。
「ほい、じゃあ鈴木さんから先ね!今日も腰痛いの?じゃクッション中入れて伏臥位で横になろうか」
「先生、電気強めで大丈夫よ。ほんっとー、湿度でジクジク痛いわ。」
鈴木さんに、ぺたぺたと吸盤上の低周波治療器を貼り付けた。
「電気いかがですか?」
「そうそう、こんくらいがちょうど良いわ、ありがとう。」
「10分たったら、またくるね」
高梨さんを呼びに行こうと、待合室に戻る。
光差し込む待合室は、大きな窓がある。
そこから見える光景に、驚いた。
びしょびしょの美しい女が見える。
白すぎる青磁のような肌が、しとしとと濡れている。
私はギョッとして思わず、飛び出した。
「ちょっと高梨さん待ってね!すぐ戻る。」
整骨院のドアをあけ、女に傘をさす。
女の胸には、小さな犬がいた。
毛があまりない、骨っぽい灰色の犬だ。
「どうしたんですか?大丈夫ですか?」
私は思わず、大きな声を出してしまう。
「え?あ、はい。ちょっとなんか疲れてしまって。仕事場から飛び出したんです。」
「事情はわかりませんが、それじゃ、その子もかわいそうだ。私はそこの先生です。タオルはたくさんあります。どうぞ中へ。」
きみ整骨院の看板を、指した。
女は少し、不安げな顔をした後、薄く唇端だけあげて笑った。
「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて。少しだけ、、、。」
私はありったけのタオルと、高梨さんのゆず茶を彼女に出した。
彼女は自分より先に犬を拭い、カバンから折りたたみの皿を二つ出し、ペットボトルの水を注ぎ、やわいドッグフードを入れた。
犬はふがふが美味しそうに、それを夢中で食べている。
それを見てようやく、自分の髪を拭い、ふーと息を吐いた。
彼女はぽつりと話し出す。
聞くと、それはあまりに酷かった。
彼女は動物看護師を目指し、就職活動中の大学生らしい。
インターンで行った先で、おぞましい現場に遭遇してしまった。
あるペットショップで、小さくとも繁盛している店だった。
犬種も変わった個体を取り扱って人気のようだ。
清掃や、爪切りや、トリミングの保定など研修を滞りなく受けていた。
「デカすぎて、価値がない。売れんし、連れていくっきゃないなー」
事務室から店長の話し声がした。
聞き捨てならない言葉に身を縮めたが、固唾を飲んで聞き耳を立てる。
店長は、違法ブリーダーの倫理を無視したミックス犬を買い、体が大きくなりすぎて、ミニチュアとして売れない個体を、保健所に連れてこうとしていたのだ。
彼女は、その場で現金を叩きつけ、その犬を優しく抱き上げた。
片手でエプロンを剥ぎ取る。
「お疲れ様でした。研修はここまでで結構です。もうきませんので。」
啖呵を切って出ていく。
背中に言葉が投げ込まれたが、胸の中にある犬の震えた瞳から出る感情だけを聞いていた。
ロッカーに戻らず、毛だらけのTシャツで、帰路を目指す。
喉はからからだった。
田舎道を照らす自販機に吸い込まれそうになったが、まずは犬をなんとかしなくてはいけない。
この先を考えると頭が痛くなる。
そんな時に出会ったのが私だった。
「それは大変だったね」
「悲しい動物を減らすために目指したのに、なんだかやるせなくて」
彼女がゆず茶に口をつけた。
「え?とっても美味しいです!
きみ先生がお作りになったんですか?」
「そうですと言いたいところだけど、そこにいる高梨さんが作ったんだよ。私もそれ大好き。」
高梨さんが自分の話をしていると、寄ってきた。
「あら、なんて良い子なの。美味しい?あなたにも後であげるわね。それにしてもきみ先生はほんっと綺麗な子が好きねぇ。さ、それよりもそろそろ私の番かしら?」
高梨さんが茶々を入れ、笑う。
「もぅ勝手にカミングアウトしないでよ。誰彼構わず口説いているみたいなのもやめて。お待たせしたのはごめんなさい。いつもありがとね。」
高梨さんを治療室へ、ささっと誘導する。
「えーっと夏織さんだっけ?高梨さん治療終わるまでゆっくりしたら?ゆず茶くれるっていうし。うちの小太郎、あ、隣の部屋にいる私の犬ねそのペットシーツもあるし、ゆっくり休んでなよ。」
それが夏織との出会いだった。
傷ついた夏織は、あまりにも美しかった。
優しい夏織に、虜になった。
私は夏には笹をとりに行き、整骨院に飾った。七夕飾りを作らない?と夏織を誘った。
冬になれば、新宿までドライブし、イルミネーションデートをした。
夏織に似合う洋服を見つければ、買い与え、夏織に似合うマニキュアは、私が彼女の爪を染めた。
ありとあらゆる表現をし、ヘテロの彼女を口説いた。
夏織は、私の求愛を受け入れ、私たちは小さなアパートでひそやかに暮らした。
彼女はよく笑った。
赤々とした傷ひとつない、採れたてのトマトのように清涼感ある美しい女性になっていった。
犬は紗羅と名付けられ、小太郎とも家族になってくれた。

「きみ先生、わかりました。荷物とかは後で取りに行きます。紗羅だけ連れて、とりあえず友達の家にでも行きますから。さようなら」
彼女は席を立つ。
グラスの中をぐちゃぐちゃとストローで掻き回した。
一色に戻る。
薄まったカフェオレは、ただの甘い水。
まるで傷をついた果実の味。
腐敗して、風味はなく甘さだけが残る。
そのぐじゅくじゅの滴り。
こっちの水は甘いぞ。
目の裏から透かす光を追うように、私は彼女の手をもう一度握りしめた。
「ねぇ、ごめん、やっぱりやり直したい。」
蝋燭の炎が、身を大きくし手招いた。

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