先生の白い嘘読了

いつまでも、被害者でいてしまう。
言いたい相手には逆らえず、自分より立場が弱い人間を搾取してしまう、加害してしまう。
加害の連鎖は恐ろしい。
視点を変えれば、彼なりの正当性があるのだろう。
彼は彼できっと、自身を児童虐待の被害者だと受け入れたくない。
恵まれた環境、親に期待されて何不自由なくそつなくこなす俺でいたかったのだ。
それゆえに、こうするとうまくいく、これが正しいと母親が受けるDV、一個の性の成功体型で間違った学習をしてしまった。
先生の白い嘘を今更ながら、読んだ。
映画化により、流れてきた告知で気になったからだ。
監督のインタビューがXでは問題視され、私自身、女性性を持っているものとして、憤慨した。
が、作品を(一巻だけ以前見たことはあった)読んでもないのに、漫画の意図と女性の演者の望むケアを断った男性監督に憤るのはおかしいなと思い、まずは漫画を読んだ。

傷ついたのを認めたくない、惨めになるから。
それなら賢いふりして、受け入れたふりをする。自分を騙す。
そうやってどんどん自分がなくなる。
そんな自分を嫌いになるというか、嫌いさえ思えないくらい、自分のものなのに、自分のものとさえ思えなくなる。
性加害の恐ろしさ、加害者が犯罪者であるのに、性が着いた途端軽んじられてしまう現状。
性には愛という側面があるゆえに、混同されてしまう。
外見の機能の差異はどうやったってある。
圧倒的に不利な機能で生まれたがゆえに、最初から上手に生きよと選択させられる。
女という与えられた外見。
そもそもが前提として、加害に遭わないために私たち外見を持つものは、努力をさせられる。
その価値観を作ったのは誰だ?
でもその価値観を持った外見を持つものを愛してしまうのは罪なのか?
そう二極論で、対立させ勘違いさせてしまうこの植え込まれたのは誰のせいか?
そうではない。
性がつくから混同する。
これは加害である。侵害行為である。
生きとし生けるもの、奪われたくない。
その根幹のことだ。
奪われたくないから奪わない。
絶対不文律だ。
それを性という言葉で包んではいけない。

だがどうやったってそれは付きまとう。
私自身同じことをしたはずだ。
女の体をうまく使おうとする自分。
女の体で選択する自分。女の体で理解したふりをする自分。
出てくるキャラクターに見覚えはないか。

そして、1人は心地よい。
ただ誰かに触れたいと思ってしまったら?
その欲は加害かもしれない。
だけれど、相手も同じ容量で望んだら?
それの中身が、実は違うかもしれない。
同じ器にたぷたぷに満たされた溶液は、同じに見えても、違う。
友愛ゆえの触れたい。
侵略したいの触れたい。
隙間を埋めて欲しいから触れたい。
忘れたいから触れたい。
守りたいから触れたい。
性欲ゆえに触れたい。
知りたいから触れたい。
好みだから触れたい。
落ち着くから触れたい。
同じように見える器でも、同じ容量でも中に満たされてるものは違う。
私がしてきたセックスは、加害だったのか。
被害だったのか。
女を上手に生きようと私は違うみたいな顔をしなかったか。
結局は男(加害者)の作った価値観に迎合しなかったか。
してきたと思う。
運良く被害に遭わなかっただけなのに、私は違うと、思わされなかったか。
痴漢をされないことを、誇らしく思ったり、逆に、恥じたりはしなかっただろうか。
そもそも一方的な加害を、そんなものさしではかるように、仕向けた男たちをなぜ憎まなかったのか。
選べない外見の性と、なぜ向き合わなかったのか。
被害にあってない現状を、そういう男性を選ばなかった、私は賢かったなどと思わなかっただろうか。
選択させてくれたなどと、当然のことのはずなのに、優しい人だと思ってしまわなかったか。
私も加害していたのだ。
男性が性を我が物とするものが作ったストーリーにのることで。
それに気付いた時に、思わず身を固くした。自分を恐ろしく思った。
私もうそをついている。
奪われておかしくなりそうだったから、苦しくなるから。
被害を受けていない、なかったと嘘をついた。

生理の匂いがすると通り過ぎざま、言われたあれを加害だと思わないようにした。
レンタルビデオ屋で、AVを1人陳列させられ、それを監視ビデオで見られていたのを加害だと思わないようにした。

加害だとわかったのに矮小化した。

子が公園やスーパーで付き纏われて、抱き抱えて逃げたのは加害だと思った。
なぜそのスーパーをもう行かないと選択するだけで、それを伝えに行かなかったのだろう。
友が痴漢された時なぜもっと強く声を上げられなかったのか。

自分が傷つけられた事実はとても苦しい。
それを守るために、優しい嘘で塗り固める。
逃避することが、自分を騙すことが1番容易いから。
それを破ってきた人たちを尊敬する。
傷つきながらも立ち上がってきた人を。
そうやって私たちのこの外見を持つものを守ってくれたんだ。
口を塞ぐのは、加害を助長するということ。
自分自身も、いつだって側(ガワ)だということ。

本編中、1人は強いの言葉があった。
それは憎しみから奮起するのには、優しさに混じったら憎しみが薄まると、好意の相手をとられまいとする幻惑の言葉の意味であったと思う。
なのでその言葉の意味でのフューチャーではないのだが、その言葉にはくるものがあった。
誰かの力を借りること、力は加害か?
じゃあ誰とも交わらず、確かにそうすれば傷つけずに済むだろう。
ただ山奥にもぐって、電波の届かないところにいってもなお、空腹があれば食料を買い人と交わることはある。
それを選択するのは不可能だ。
だとすれば、自分は凶器を持っていると分かった上で、それをどう正しく使うか常に考えていくしかない。
触れる、交わるという行為には常に加害と紙一重だ。それでいて傷ついたもの同士癒る力を持つのも、一丸となって、権利を取り戻すのもまた力。
外見の絶対性の符号による弱さ。
中身の誰しもある加害性。
それと向き合い、正しく選択していきたい。
んでもって漫画に感銘受けた上で、映画のインティマシーコーディネーターの拒絶は男性による性加害であると断言する。
声を上げ続けるぞ。

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