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フロ読 vol.26 楠木健 山口周 『「仕事ができる」とはどういうことか』 宝島社新書

のっけから、「仕事ができる人」は稀少と。楠木先生のお話は何度か伺ったことがあるが、その私から見ても、「これって、仕事がこれからできるようになりたい人は、どうすれば…」とわずか2ページ読んだだけで、手が止まる。
 
年齢からすれば、「スキル」が身につき、「役に立つ」ところまでは来たかもしれない。仕事もそこそこ楽しむ余裕ができて、特に不満があるわけでもない。それでも「この人じゃないとダメだ」と言われるほどの人間になれてはいないし、「自分以外の誰か」にどれほど助力できているかは甚だ心もとないものがある。
 
「スキル」は分析、「センス」は統合。分析派と統合派というふうにタイプが分かれているのではなくて、実は仕事が「できない人」と「できる人」に分かれているのではないかという論調にやはりタジタジとなる。どう考えても私は「スキル=分析派」だ。やばいなあ…。
 
エリート層を惹きつけるのが、受験みたいに何かしらの階層を作ってマウントを取り合うシステム。山口氏の外資系戦略コンサルティングファームとオウム真理教は「階層性の明確さ」という点で非常に似ているという指摘に納得。その後の「両方とも『偏差値は高いけど美意識がヒドイ』」というオチは最高。そうだなあ。美意識ならば、自分の仕事でも重きを置いている自負はある。というか、それくらいしかないとも言えるけど。
 
「スキル」を重視して争わなくてもいい人と競争状態になると、どうしても自分のことばかり見てしまうということは以前から気になっていた。本書のp236に

器が小さな人ほど「自分が大きい」んですね。自分のことで頭がいっぱいで、自己を客観視できない。
  自分が小さい人は、頼りにされても容易に人に頼らない。貸しが多いのに、回収しない。(中略)自分が小さいということは、勇気があるのと同じくらい大切なことですね。

これは肚落ち。器が大きくなるかどうかわからないけど、自分をできるだけ小さくしておきたいな。モデル的には父方の祖父がそうだったし、年末にお仕事関連でお世話になった英語講師の寺島よしきさんなど、参考にしていきたい。
 
ある程度のところまでは「スキル」が引っ張ってくれるのは間違いない。でもそこから固有の価値は生まれにくい。うん、わかる。「スキル」には旬があるために成功体験となってしまい、それを超えて「センス」の開発に到らないことが多い。なるほど。ここまでは薄々察していたことなので特に発見は無かったが、p86以降の「センスの事後性」には目を見張った。「スキル」は必要性なり好みなりで自分で事前に選択できるが、「センス」は到達してから振り返って気づく。特に

自分にとっては「できて当たり前」のことなんで、きっかけがないと「それが他人にとってはできないことなんだ」ということになかなか気がつかないんです。

これこそ、言われないと気がつかないこと。ここに気がつくための近道はおそらく、
①    自分を小さく持つこと
②    読書で疑似的ではあっても効率よく広範な経験をすること
 
フロ入っているだけでこれだけ学べる。読書重要。フロ読ブラボー。

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