フロ読 vol.35 東浩紀 『訂正する力』 朝日新書
以前から書店で気になっていたが、vol.26に書かせて頂いた楠木建先生のリコメンドで購入に踏み切った。
一読即、思ったのは、「うわあ、これは賛否両論出るだろうなあ」ということ。また、「これに否をつきつける人とは話が合わないだろうな」ということ。
日本が何となく閉塞感に満ちている。それはなんとなく分かっていた。開放されてはいるが、どことなく因業的というか。知識人と呼ばれる人たちの話もお定まり過ぎてきちんと聞く気になれないところがどこかあった。
おおよそこの世から「吟味」というものが消えているようにも思う。どこかから得た情報をただ垂れ流し、そこに安易な想像だけを加えて慢心できるのは何故か。件の知識人たちもそこについて語ることはあまり無かった。
①我々が同じ世界に存在しているのを保証しているのは、第三者だけ。
②「知」=「真実」ではない。それを査定するのも第三者。
③「いま」というのはいつを指すのか。
結局、「令和史」を今作ることは不可能なのだ。それならば、テレビのコメンテーターの皆様は何を自信ありげに喋るのか。その場の気分で意味付けを行うのは「訂正」ではなく偏見による小「改変」に過ぎまい。
みんなで沈黙の世界からみんなで弾劾の世界に変わろうとしているが、大多数の意見にみんながついていくことは多様性を肯定したことにはならない。LGBTQでも移民問題でもヘイトスピーチ問題でも、権利を認めろと声を上げるのは良いことと思うが、それをみんなが受け入れるのは違うと思う。「そういうの嫌なんだよね」と拒否する人との軋轢を受け入れつつも、良い方向に徐々に訂正していく。変に受け入れるか論破して叩くかの二択では、メジャーとマイナーが交代し合うだけだ。
札幌にいた時、豊平川で釣りをしていたら、BBQをしていた集団に声をかけられた。「お肉食べて行かない?」と声をかけられた小学生の長男が、じっと川の方を向いて沈黙していると、「あら、オカマとは話してくれないのね」と言われて、ハッと気づいた。そういう集団だったのだ。「オカマ」の皆さんはゲラゲラ笑って陽気だった。長男が相手がオカマだったから話さなかったのかは分からない。でも、受け入れてもらえないこともアリ、を前提として話しかけてくれた異世界の方々は、すごくすっきりした人間関係として好感が持てた。多様性とはこういうことではないかと思う。
p157には「訂正」に必要な条件として、次の3つが挙がっている。
① 余剰の情報
② 考える時間
③ 試行錯誤を許し合う信頼関係
コスパ・タイパの優先する社会。そのくせ人が本当に求めているのは、実は上の3つではないのだろうか。
そう考えると、3つの全てを兼ね備えたフロ読、意外にイイ感じなんじゃないかねえ。