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昨日のことは書かない

きのうは寝たのが0時過ぎだった。今日は起きるのが遅かった。その背景には色々あるけれど、昨日あったこと自体は書かない。1日の、出来事の羅列だけでは、面白くないからだ(自分が)。なにをしました。なにがありました。なにをおもいました。息子の日記じゃあるまいし。1日の日記にしようとすると、事実の羅列でしかない。それは文章というより、箇条書き。ジャーナル、歴史資料である。そーゆうのは、10年日記帳を持っている。箇条書きで、やったこと、使った金、食べたものを書いている。たとえば2018年の7月3日「休み。二度寝する。昼食穴子弁当1000円。スタバ302円。スーパー食材2297円ホッケ、宇都宮餃子、豚汁の具。息子と公園シャベル投げて遊ぶ。妻岩盤浴。W杯日本ベルギー2-3敗退16強止。世論好感。夜終電で職場に前乗り」とある。これはこれで。事実しか書いてない。感情のことは書かない。嬉しかったことなら、読めば自然に思い出す。落ち込んだこと、怒ったことなら、書かないことで忘れられる。2018年の、嫌な気持ちなんて思い出したくない。開くたびに負の感情が解凍されてしまう。事実だけ、淡々と書くのが続けるコツである。(最近あんまり書けてないが)。手書きのノートや、noteにしても、その場のインスタントな感情を書くのは、悪手である(僕にとって)。消化されてない想いは、上手に文章化できない。「嬉しい!」「感動した!」「悲しい!」「ムカつく!」「ドヤ!」どうしても感情が先走ってしまう。書かれたものは浅く、変にポエミーで生臭い。そーゆうのを時間が経って読み返すと、恥ずかしーってなる。書いたものが、僕の人生が、なんだが黒歴史、負の遺産の集積みたいになってしまう。恥の多い人生でした。次第に書かなくなる。経験上。いままでいろいろやってきたのだ。感情のことをかくならば、症状が収まってからせめて2週間は寝かせて、ある程度、自分を客観視できる状態で書いたほうが良い。気持ちを冷ましてから言葉にすると、そんなにひどいことにならないし、新たな気づきもあったりする。だから毎日書くとしても、昨日のことは書かなくて良い。どうしても昨日のことを書きたければ、出来事をトリガーにして、主題は消化された素材にもっていくべきである。そう考えれば僕の中には過去37年分のネタが溜まっている。昨日の1日に限定すると、ネタは1日のなかで探さなきゃいけない。ネタを捻出するために奇行に走ったり、へんにキョロキョロしたり。それは苦しいことなんじゃないかと思う。自分の内面をほってみれば、素材はいくらでもあるのである。たぶん。ちなみに、毎日掲載してる写真も自分で撮ったものだけど、これも20年前〜現在まで、時系列はバラバラである。アマゾンフォトに、20万枚の写真が保存されている。うち、お気に入りが1万枚。そこから半分ランダム、半分テーマに沿って写真を選んでいる。文章を書くのも、そんな感覚である。1224文字

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