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物語の種が生まれる日

これもまた昔の話になるけれど、わたしは基本的に精神が追い込まれるとたくさん文章を書く傾向がある。高3のころ、読書感想文で賞をとるぞ!と意気込んだ時も、大好きだったひとにフラれた直後だった。悔しさとか、悲しさとか、そういうのは創作のばねになりやすいんだろうなと、思う。反対に、これといった大きな不満がないような日々がつづくと、ぽっかり穴があいたみたいに、頭になにも流れてこなくなるときがある。

やばい。今なんも物語書ける気しない。
からっぽだ。

なんて思ったりする。
だから、その空っぽを感じるまえに、辛いとか苦しいとかおもうとき、できるだけたくさん物語になりそうな種をiPhoneのメモに残している。プロットまで進むものもあれば、散文どまりのものもある。ほかのモノカキをしている人たちはどうなんだろうか。いつでも物語のアイディアって降ってくるんだろうか。もしそういうひとがいたら羨ましいなあ。

最近、タイトルの通り「物語の種が生まれる日」のことをよく考える。自分がこれを書きたいって思う気持ちってどこからやってくるんだろう、とかも。

メモを見返すと、旅行中に感じたことはよく物語になるなあと思う。(そういえばずっと上手くまとめられていなかった、学生時代の一人旅のエッセイもいつかnoteにのせたいなあと思っている)。

学生の頃はよく船に乗る機会があって、共有スペースで見知らぬネパール人の男性と夜が更けるまでお話ししたり、旅先で初めて出会ったおじいちゃんに赤いスポーツカーで高知のカルスト高原に連れて行ってもらったり、わりとすれすれのところをくぐりぬけて、わたしは今生きている気がする。今思えばなんとチャレンジャーというか、怖いもの知らずというか、自分でも驚いてしまう。当時はぜんぶそれが楽しくて、目の前にあるものを知りたい、という好奇心が強くて、それが外側から見るとどう見えるとか、そういうことはいっさい見えていなかった気がする。(だから、本当にお勧めはできない)。

だけど、あの頃みたものとか、自分で掴みに行った言葉と景色とそのすべては、今わたしが物語を書く上で大切な土台になっている気がする。綺麗だと思ったものも鮮明に思い出せるし、またもういちど歳を重ねて同じ場所を巡りたいとも思う。こんどはひとりじゃなく、友達や家族と一緒がいいけど。

そういうことを振り返って気がついたことは、わたしは自分の感じていたことを、悲しい思い出も、楽しい思い出も、何度も思い出して取り出したいんだろうな、っていうことだった。それも曖昧なものじゃなくて、なるべく鮮明な記憶を起こして保存された「箱」として。そのために、文字を起こすし、エッセイを書いたり、物語を書いたりするんだろう、たぶん。

これは想像だけど、ほとんどのひとは悲しいことは思い出したくないし、楽しいことも日記にして残しておきたくても、なかなか忙しくて実践できないんじゃないかなと思う。(もちろんインスタにあげる文章は、楽しい記憶を文字に起こすってことなんだけれど、なんというか、あの場所で表現できることには制限がかけられている気がしてしまう。わたしだけかな。)

わたしは、どちらかというと辛かったことも悲しかったことも、嬉しかったことも楽しかったことも、できる限り、そのときの感情の鮮度で覚えておきたい。なんでかはまだよくわからないけど。いつか分かるかな。そんなこといったってなかなか難しいから模索するんだけどね……

物語の種が生まれる日。
みなさんの書く物語の種は、どんな瞬間に生まれますか?


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