曽祖父(とその他大勢)の慰霊碑

 もうほとんどセピア色に変色した紫陽花並木に挟まれた山道をひたすら登っていく。この山の頂上に私の曽祖父の慰霊碑がある。正確には曽祖父が所属していた部隊の慰霊碑がある。私の曽祖父は太平洋戦争時に徴兵され、フィリピンで戦死した。曽祖父が死んで今年で79年目になる。
 曽祖父の顔は見たことがない。曽祖父の次女である私の祖母も自分の父親の顔は覚えていない。祖母は今年で81になる。不可抗力で身体に不調をきたす年齢になった。だから最近はひ孫である私が娘である祖母の代わりに曽祖父(とその他大勢)の慰霊碑に手を合わせる機会が多くなった。昔は毎年慰霊祭が行われていたらしいが、遺族の高齢化もあってか終戦70年の節目の年に終了することになったらしい。
 慰霊碑群の手前にある駐車場に車を止める。駐車場の近くにある見晴らし台には多くの人が集まっているが、その奥にある曽祖父の慰霊碑を含めた戦没者慰霊碑群の方には全く人がいない。誰も参る人がいないのか、可哀想にと思いながら歩いているといきなり足を捻った。おそらく私が「可哀想に」なんて思ったものだから誰かの怒りを買ったのだろう。捻った右足首をさすりながら歩いていると、白い正方形の紙片が何枚か私の元に転がってきた。休憩所のおばさんがこちらへ走ってくる。私は全ての紙片を拾い集めておばさんに渡した。彼女はラムネのようなお菓子が置かれた器を手に持っていた。おそらくこの紙片はお供えのお菓子の下に敷くものだったのだろう。
 紙片を拾った後さらに歩くと曽祖父の慰霊碑を含むフィリピンの戦没者慰霊碑群が現れる。ここはフィリピンを含む海外で戦死した人の慰霊碑が集まった場所で、フィリピンの戦没者慰霊碑群は観音像を中心にひとところに集められている。観音像を取り囲むように並んでいる慰霊碑のうちの一つに曽祖父が所属していた部隊のものがある。
 曽祖父(とその他大勢)の慰霊碑は長方形の石に達筆で書かれた鎮魂の文字と部隊の名前が彫られている。まぁまぁ立派な構えではある。側面にはこの慰霊碑の建立に携わった人々の名前などが彫られていて、そこには曽祖父の妻である私の曾祖母の名前も彫られていた。
 慰霊碑をじっと見つめる。ここに私の曽祖父もいるということが不思議だ。そして母方の実家の近くの山に父方の先祖の慰霊碑があるという偶然にしては出来過ぎているような事実にも驚きを覚えた。祖母への報告用にスマホで慰霊碑の写真を撮ると真ん中に建てられている観音像に賽銭を入れ、私はその場を後にした。
 その後、祖母に曽祖父を参ってきたと電話で報告した。祖母は私が慰霊碑を度々訪れていることに感謝を伝えてきた。
 祖母は父親である曽祖父の顔を覚えていない。曾祖母と大伯母と祖母の女三人暮らしの生活は大変だったに違いない。実際、祖母は父親がいなかった家庭で育った自分自身にコンプレックスを抱いているし、両親が揃っている家庭で育った人間に対して羨望の眼差しを向けていることはよくある。戦争で失われるのは何も人の命ばかりではない。失われた命の周りにいた人もその人が死によって人生が大きく狂わされる。今戦争を行っている当事者たちはこのことも推して知るべきだ。いや、知らなければならないだろう。

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