暴力についての私見

 暴力というものは下賤でありながら純粋な美も持っていると私は考えている。暴力を行使する背景には「欲」しかなく、その行為は極めて単純で主観的だ。いや、そうでなくてはいけない。それが本来あるべき暴力の姿だからだ。エゴと欲。暴力を構成するのはこの二つの概念だけであり、その単純さが暴力を暴力たらしめ、暴力をその他の複雑な概念から成り立つ行為から切り離して純粋且つ孤高なものとし、暴力における人間の想像力を拡大させる。だからこそ暴力は常に人類の歴史の大きな要素であり、様々な芸術作品における主要なテーマの一つとなるのではないだろうか。
 しかし、そこにイデオロギーや友情•愛情といった「他者」を軸とした概念が入って来ると暴力はその純粋さを失ってしまう。それらの概念が入ることで暴力は下賤ではなくなるかもしれないが、複雑且つ醜くなってしまう。誰かのためや国や神といったもののためにといった理由で暴力を行使することで、暴力の背景にあるはずのエゴや欲は隠されてしまう。
 「他者」を軸とした概念の裏には必ず、この行為を行えば自分は相手にとって良い人間として認識されるはずだ、これをすれば自分は相手に対して優位に立てるはずだという「自分」を軸とした概念も含まれる。それは暴力が主体的なコミュニケーション手段として発展してきた以上変わることのできないものである。他者のことだけを思って行使される暴力などありえない。暴力の裏には常に自分、つまりエゴと欲が隠されているのだ。暴力とは自分本位で行われるものなのだ。
 本来ならば自分のために行う下賤で純粋な暴力が他者のために行う行為になる時、暴力は「建前」を手に入れ、暴力という行為が「正義」や「仁義」に変化する。しかし、変化しても暴力という手段を用いる以上そこには自分自身のエゴや欲望が多少なりとも含まれるため、完全に他者のために行われる行為だとは言えないだろう。その自身のエゴや欲が含まれている正義や仁義は果たして他者のことを第一に考えて他者本位で行われる善行だとすることができるのだろうか。否、それはあくまでも他者のためという建前の下にある「偽善」に過ぎないと私は考える。
 そして偽善化した暴力は自分本位でありながら他者を軸とした概念が入ることで複雑になる。複雑なものの絡まった思惑を解きほぐして整理し、それらの思惑を一つ一つ解消していくことは難しい。それなりの時間と労力を要する。だから他者を軸とした暴力である戦争や紛争、抗争は長期化しやすい。それらの暴力が長期化してしまうとその分破壊される物が増え、命を落とす人が増え、消費される金や資源が増え、過ぎていく時間も増える。それは転じるとその場所から全てが減ってしまうということ。様々なものが減少する場所に発展はありえない。あるのはただ衰退のみ。暴力とは非生産的なものなのである。その非生産的なことを大衆がより生産的な生活を送れるように努めることを生業とする政治家や宗教家が先導しているのは極めて矛盾しているし不自然だ。

 結局何を言いたいのかというと、戦争・紛争・抗争をやっている連中はもれなく全員クズでゴミで大馬鹿だ!と言いたいのである。


追記
 ここまで読んでくださった読者の皆様、大変申し訳ございません。こんな駄文を書くつもりはなかったのです。おそらくトリスウイスキーで酩酊した状態で書いたのがいけなかったのです。しかしこの文章が今現在私が世の中に氾濫している暴力に対して考えていることをそのまま表現していると推敲の際に思ったことから(そして文章の直しどころがあまりに多いが最初から書き直す労力もないことから)最初に書いた文章のまま投稿しようと判断した次第でございます。したがってこの文章を読んでご不快に思われたり憤りを感じられる方がいらっしゃるかもしれません。ご容赦ください。コメント欄で存分に罵って頂いても構いません。それでもこの文章にちょっとでも共感したり、一理あるなと思って下さったら♡のマークを押していただけると幸いです。

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