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Vtuber、大炎上しすぎじゃない?

 最近、Vtuber界隈の炎上の質が変わってきたように思う。私はVtuberの厄介オタクであるから、どちらかと言うとその炎の側なのかもしれないが、それは大目に見て話だけでも聞いてほしい。言いたいことは、ちょっとしたことで大炎上しすぎじゃない?怖くない?マジって思うってだけである。個人的な感想だと故意に騒ぎすぎだと思う。でも、仕方ないのかもしれないとも思う。

 いつの時代も、ふざけるな!と言う人は無敵である。私はもうインターネット老人会の住民であるから、ふざけてメチャクチャな人が居たから感じたインターネットへの妙な安心感から、現実の世知辛さが及ばない世界として私はインターネットにどハマりした部類である。インターネットも月日の流れとともに現実との距離が近くなってきて、Web上で出会う方がよっぽど現実的な人さえ居るほどだ。だからか、現実のことよりウェブニュースに一喜一憂する人も居るし、インターネットだからと全てが許されるわけではないにしろ、ふざけるな!と憤る人をインターネットでも見る機会が増えたように思う。

 何か行き場の無い不満を感じている人ほど、その矛先を探している。5人がかりで当時の私を殴った小学生時代のクラスメートたちも、教員から指導が入ると別の誰かを殴りにいっていた。許される・許されないは置いておいて、少なくとも私は絶対に許さないが、察するにきっと彼らは殴れる相手を探していたのだと思う。ちなみに私が殴られた理由は靴がキレイだったからムカついたんだとか。Vtuberの炎上に関してもそれと近いことが起こっているだと思う。

 Vtuberも普及したし、ある一定以上の名声を得たから、何か人生でも上手く行っていない人から見ると、私が靴を理由に殴られたように、貰い事故的に無条件に上手く行っているようで鼻につく場合があるらしい。理由なんかどうでもよくて、気に入らない対象を探して、次にそれをぶん殴る理由を探す殴りたい族みたいな人種が一定数いるらしい。気に入らんからだけでぶん殴られては堪ったものではないが、世の中というのはそういう場所らしい。

 WEBコンテンツ普及の歴史はコンテンツに火が付いた歴史であり、いわば炎上の歴史でもある。最初は受け入れられない人が発する悲鳴に過ぎなかった批判も、その数が増えるにつれて質も悪い方へ流れつつあるように思う。インターネットやオタク文化に関わるコンテンツは、アニメだろうが何だろうがそういった炎上の歴史を歩むことになるし、Vtuber文化も例外ではない。ここで面倒なのが、炎上の歴史があるというだけで、これは燃やしても良い場所なんだと錯覚する輩が一定数いることである。

 火の無い所に煙はないとか言うけれど、放火をされている場合だってあるし、小ボヤを見つけると水ではなくガソリン片手に火の手を広げようと群がるような人も見受けられる。その炎上の大きさがイコールで当事者の失態というわけではない。故意に悪意でもって火の手を大きくしようと企む者もいる。

 燃えているから燃やしていいわけではないし、燃えているのだから何をしても良いというわけではないということなど、ちょっと考えれば分かる気もしないでもないが、炎上してるのが悪いと正当化して叩き続ける人が居るらしい。「燃えてたからもっと燃やした。悪気はない。火つけたわけじゃないのだから。」ってのが理屈として通っちゃう人がファンタージじゃなくて現実に存在する。自分はほんの1回だけ扇子で火を扇いだつもりでも何十、何万と人がよれば火柱は想像を超えて大きくなる。

 最初に火をつけたのは自分じゃないから!と自分の免罪を訴えるような火の手に向けて油を注いた人と放火魔との本質的な違いなど私にはわからない。私には分からないが、私を5人がかりで殴ったクラスメートも1人1人漏れなく全員が自分は主導してないとばかり訴えていたし、それで許されると思っていたらしい。その後も根が悪いわけじゃないからと結果的にそれで許す雰囲気が蔓延したから、その理屈で生きる人は居るらしい。そもそも人気コンテンツの悪態をつつけるほど、野次馬って本当にちゃんと全うに生きてるの?って思わないでもないが、そういうことを言うと今度は私が燃やされる番かもしれない。

 何でも良いから叩きたい人の中に、恐らくVtuberだから叩けるというタイプの人が混じっているのだろう。顔を隠していて卑怯だとか、探せば言い分なんていくらでも出てくる。芸能人なら叩ける人、店員なら叩ける人、公務員なら叩ける人、いろんな叩ける人が居るけれど、人は自分が強く出られると思ったりした対象に理由をさがして強く出るものであり、それが幼少期の教室で行われるとイジメと呼ばれるわけである。大人が社会で同じことをやってるんだから、叩くな!とかイジメるな!と善意に訴えかけても悲しい事に無理があろう。

 悪意あるアラ探しをされるわけだから、被害を受けた方に別に非があるとか、そういう話ではない。そういう話ではないが、たとえ筋が通らないとしてもお構いなしで、痴漢は痴漢されるような恰好をしている女性の方が悪いみたいなことを平然と言う人が普通に存在するように、私がクラスメートから「死ね」と言われたとき、言われるだけの理由があるのではないか?と暴言を吐いた者ではなく暴言を受けた私を指導した当時の担任のように、それが分からない人が居る。

 他人の不幸を欲しがって、自分のうっ憤をぶつけるサンドバックを探している人の数は多い。大炎上→謝罪、また大炎上→謝罪の流れをマッチポンプし、それを眺めてほくそ笑む文化がVtuber文化に定着していくとしたら、この上なく心寂しいように思う。誰でも良いから叩きたくて叩いているに過ぎないチンパンジーの群れが己を棚に上げて自らも片棒を担ぐ炎上を盾に正義面をしているのだとしたら、それと同族に思われる存在にはなりたくないものだ。

 炎上しても良いとは思わないが、1回のミスで鬼の首を取ったように全てを奪い取ろうとする姿は少なくともファンとは呼べないだろう。しかし、ファンの好意も気持ちであり、大きすぎる気持ちをいうのは不意にバランスを崩し攻撃に転じればクレーマーに他ならない。たとえ焼け石に水であったとしても、意図的にクレーマーや叩く側にならないように自制する気持ちは大切なのかもしれない。

 しかし、フォロワー総数の増加と共に、すべてではないのに相対的に叩く人と叩かれる場面を散見する機会も増え、悪目立ちするが故に決してそんなことはないのだが、そういった世知辛さが全てであるように見えてしまったりするタイミングも来るのだろか。この世は空想・仮想の世界まで世知辛さに飲まれるのだろうか。この世は世知辛いのじゃと言って一世を風靡した狐耳は、ひょっとすると預言者だったのかもしれない。

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