書評:ティモシー・ウィリアムソン『哲学がわかる 哲学の方法』についての走り書的覚え書
ティモシー・ウィリアムソン『哲学がわかる 哲学の方法』(岩波書店、広瀬覚 訳、2023年)(Philosophical Method: A Very Short Introduction, Timothy Williamson, Oxford: Oxford University Press, 2020) 読了
著者は哲学の出発点に「常識」を据える。その仮想敵はデカルトの追従者たち、つまり懐疑論者だ。「常識」の立場から懐疑論者を批判することがこの第1章の大目的である。だが評者が問題としたいのは、批判するために彼らを「パラノイアの哲学者」と呼び、精神疾患者と同一視して当てこする些細な文飾についてである。
懐疑論者とパラノイア患者を不愉快にさせる記述である。だが、評者は著者が精神疾患について差別的かどうか揚げ足取りをしたいわけではない。重要なのは、いくつかなされている精神疾患者への言及が、結果的に、著者が提示しようと試みている哲学の方法を疑わしいものにしていることだ。たとえば以下のような思考実験が、想定される懐疑論者からの反論に対する再反論として述べられている。
デカルト的懐疑を皮肉る思考実験である。しかし疑問点がいくつかある。まず、現実に自分が認知している幻覚を信じられない精神疾患者など存在するだろうか? あるいは、他人からの報告と幻聴の区別ができない精神疾患とはどのようなものか? 現実に患者が苦しんでいる原因は、むしろ、知覚した幻覚の実在を信じたくないにもかかわらず、疑えないほど現に知覚しているからだろう。幻聴は疑わしいのではなく、疑わしくないから恐ろしいのだ。この点において幻覚という症状は、ありありとした知覚すら疑おうとするデカルトや他の懐疑論者に取り憑いた懐疑とはまったく異なる。彼らと論争するつもりなら持ち出す必要がないし、例として適切でもない。
あるいは、著者が思考実験として現実にはありえない精神疾患を仮定しているとしたらどうだろうか? だが、この場合においても、次のような可能性がありうる。絶え間ない幻覚もそうでない現実もすべてが患者にとってありありとしており、それゆえ実在的なものとして認知・信用される場合である。別言すれば、いちど著者の仮定を受け入れたとしても、その精神疾患者が必然的に懐疑論者になるわけではない。むしろ独断論者にもなりうる。論理的に別の可能性が残るのだ。反実仮想的な思考実験という著者の方法は、この実演において成功していない。
思考実験が失敗している原因として、視点の混在を指摘できる。一人称的に精神疾患者の立場に自分を移入しようとするならば、すでに述べた通り想定している可能性が少なすぎるため、懐疑論者を批判するためには不適当である。翻って、三人称的に精神疾患者を傍観する立場ならば、ある人物だけが認知する幻覚の実在を我々が信用できないのは自明であり、思考実験する必要がない。にもかかわらず著者はそれらを混在させて、一つの物語をでっち上げている。結局のところ、「常識」を擁護しつつ懐疑論を批判する文脈において、精神疾患者が登場する思考実験は効果的に機能していない。
※
英語能力に乏しい評者は、直前に引用した7ページの最後の「彼ら」は「幻覚に囚われた一人の人物」ではなく「自然科学者」を意味していると取った(誤読であれば指摘してほしい)。このとき精神疾患者は、さしあたりたいてい人類がおおよそ共有している常識的な「認知能力」をもつとみなされない。また、そのような認知能力を共有する社会の「常識」的知識・信念を共有していない。精神疾患者は著者が「常識」とよぶ能力も知識も共有していないのだ。それゆえ、それを根拠とした自然科学からも哲学からもあらかじめ排除されている
それはしかたないことだろうか? 奇妙なことに、著者はパラノイア的であったり幻覚に囚われたりしている精神疾患者に「常識」を認めようとせず、むしろ人間以外の動物にはそれを認めている。
動物一般にも常識があるから、ヒトにも常識がある。ゆえに、それに依拠して哲学も自然科学も成り立つ。そのように議論を展開する。しかし精神疾患者と同一視された懐疑論者だけは例外的にそのメンバーに数え入れられない。評者にはこの議論は説得的であるとは思えない。懐疑論者と同一視された精神疾患者もそれへの参加資格を持たないからである。
著者からすれば、たまたま例に取った精神疾患者についての記述めがけて、評者は揚げ足を取っているだけに見えるかもしれない。しかし、これらの記述はユーモラスというよりグロテスクである。動物にあって精神疾患者にない「常識」を根拠にした哲学など、私にとって「常識」外れも甚だしい。これがあくまで哲学の方法の実践だとしたら、私はこの学問に参加したいと思わない。著者自身も言っているではないか。
著者が「常識」から出発したはずの議論は、最後には、言行不一致的に非常識へと頽落しているように思われる。それは一般に日常言語で共有されている常識的知識と矛盾しており、したがって偽にほかならない。
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