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水の底の悲しみは

「湖に沈めた」と、彼女は囁くように言った。「悲しみがあるの」
 そのころのぼくは、人里離れた森の中の小屋で暮らしていた。なかなかに困難な出来事が重なり、都会で生きるのが苦しくなった時期だった。もう少しあそこにとどまっていたのなら、ぼくは憎悪の虜になっていたことだろう。あそこに住まう多くの人がそうであるように。誰かが誰かを出し抜き、それに憤り、それを誰かにぶつけ、その人がやり返したり、また別の人にぶつけたりする、そういう中にとどまるのにはもう限界だった。もちろん、それはぼくの周囲に限った、非常に限定的な状況だった可能性は否定しない。
 森の小屋は友人の持ち物だった。
「おじが絵描きでね」と、友人は言った。「アトリエとして使っていたんだ。それを相続したんだ」
「本当にいいの?」
 彼は肩をすくめた。「建物は誰も使わないと痛む一方だしね。売るにしても買い手はつかないだろうし、壊すにしても金はかかる。誰かに使われた方が、建物としても幸せだろう」
 そういうわけで、ぼくはそこに隠棲することになった。隠者になるにはいささか若いような気もするが、人の間に疲れるのに年齢は関係ないだろう。
 そこでの生活は静かなものだった。いや、音には満ちていた。朝は鳥のさえずり、朝露の、しずくの落ち葉に落ちる音。風が葉を鳴らし、音楽を奏で、鹿がなく声が聞こえ、鳥が愛を歌う。夜啼鳥が月に語りかけ、雨粒が屋根を叩く。都会の喧騒とはまるで違う、豊穣な音がそこにはあった。もちろん、これは人の間に倦み疲れたぼくだからこその感じ方かもしれないけれど。
 何日も何日も口をきかないようなことはいくらでもあった。話し相手などいないからだ。数ヶ月に一度、必要最低限のものを買い出しに行くとき以外、人と会うことはなかったし、そのときにも言葉を交わすのはまれだった。それで寂しいと思うこともなかった。自分の境遇をいたずらに誇るような気持ちもなかった。そこで、そんな風に、植物のように生きていきたいと思った。
 そんなある日、女が小屋に訪れた。倦み疲れた女だった。
「悲しみ?」ぼくは言った。湖は森の少し奥にあった。静かで、誰もそこまでは行かないような場所にあった。凪いだ湖面は美しく空を映し出したものだった。
「そう」と、女はため息交じりで言った。「悲しみ。それも、とても重たくて、冷たい悲しみ」
「そう」ぼくはそう言うと、温かいコーヒーを差し出した。女にはなにか温かい飲み物が必要なように、ぼくには思えたからだ。女は差し出されたそれを少しの間じっと見つめ、唇をつけてそれをすすった。そして、深く息をついた。
 ぼくは倉庫にホコリを被ってしまい込まれたボートを出してきた。一応点検をし、穴が空いていないことを確かめたけれど、実際に水に浮かべてみないとどうなるかわかったものではない。
 ぼくとその女はそのボートを湖まで運んだ。そして、それを水に浮かべる。彼女を先にそれに乗せ、ぼくはボートの船尾を押し、岸から離すとそれに飛び乗った。雲ひとつなくよく晴れて、風のない日のことだ。
 ぼくはオールを動かし、ボートを湖の真ん中まで進める。女は湖面を見ているのか、それともなにも見ていないのかわからない目つきだった。ぼくはそれについてなにも言わなかった。そして、適当にオールを動かすのをやめた。女はなにも言わなかった。空が青かった。湖面がそれを映し出していた。とても静かだった。どこかで鹿が鳴いた。ぼくも、女もなにも言わなかった。時間だけが、ただ過ぎ去っていっていた。そんなものが実在するのだとしたらだけど。
「もしかしたら」と、女が沈黙を破った。「ここは、地獄なのかもしれない」
「ここ?」
「この、世界」
 ぼくはなにも言わない。
「神様の救いの手が差し伸べられて、ここから救い出されたとしたら、どこに行くのでしょう」
 ぼくはなにも言わない。たぶん、それはぼくに向けられた問いかけではないように思えなかった。
 ぼくはなにも言わない。そして、しばらくするとオールを動かし、岸に戻った。女はなにも言わなかった。
 女はなにも言わず、振り返りもせずに森から出ていった。ぼくもなにも言わなかった。なにかを言う必要を感じなかったからだ。
 きっと、女の悲しみはいまもまだ水の底に沈んでいるのだろう。


No.489


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