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水瓶

 大きな水瓶だった。古くから家にあるもので、何か謂れがあるとかないとかの話だった。幼い頃、その中 を覗き込んだ時の恐ろしさは今も覚えている。ほんのすぐ先が水瓶の底のはずなのに、それは物凄く深く、何か誘い込むようなものを持っていた。うっかりすると飲み込まれたくなってしまうのではないかと不安になった。
 父が死んだのち、財産は全てわたしに引き継がれることになった。その中にはその水瓶も入っていた。
 その頃のわたしは仕事というものを持たなかったので、日がな一日退屈して過ごしていた。もちろん母も祖母もそれを快くは思っていなかった。わたしに家業も継ぐことを期待していたのだ。財産を継いだように。とはいえ、父が病に臥せって以来、それは母と祖母、それにわたしの妹が手助けするような形で切り盛りされていたのだ。はっきり言って、わたしの手など猫の手以下のことしかできなかったに違いない。そして、実際のところ、母も祖母もそれ以上をわたしに期待などはしていなかった。彼女たちの期待していたのは、わたしが家業を継ぐという形式であり、わたしがそれを乗りこなし繁盛させるという内容ではなかったのだ。
 ある日、手持ち無沙汰だったわたしは、戯れに水瓶を持ち上げてみた。なぜそんなことをしたのか、自分でもわからない。往々にして、暇な人間はなにをするかわからないものである。
 水瓶はずっしりと重かった。それは現実的な重量であった。こんな具合なことを言うと気取っている感じがしてならない。単にブラブラ過ごしていた身体は思いの他弱っていて、水瓶のその重量にとても耐えられなかったというだけだ。言い訳するわけではないが、中に水を張った水瓶はかなりの重量であった。ぐらりと揺れた拍子に水が手にかかり、それが原因で手が滑ったのも水瓶を落とした原因の一つだ。
 わたしは持ち上げた水瓶を落とした。もしかしたら、それをわたしは望んでいたのかもしれない。わたしはそれを破壊してしまいたかったのだ。その水瓶を壊したところで、誰も悲しみはしないし、憤慨もしない。確かに古くから家にあったが、さして大事にはされていなかった。とにかく壊したかったのだ。なんでもよかったわけではない。わたしはその水瓶が壊したかったのだ。理由などない。わたしはその水瓶が壊したかった。
 派手な音を立てるに違いない、とわたしは身構えた。ところがそれはぐしゃりと崩れるように潰れ、思ったほどの音を立てなかった。わたしは落胆した。わたしの企みは大音響の中フィナーレを迎えるべきだったのだ。
 わたしの足元には水瓶の破片と、おびただしい量の水によって作られた水溜まりができただけだった。わたしは何物をも得なかった。それどころか、水瓶がこの世から姿を消したその瞬間から、わたしにとって水瓶はとても大切なものになってしまった。なぜこんな真似をしたのか、自分でも理解できなくなった。一瞬前までは、壊すことを望んでいたにも関わらず。
 わたしは這いつくばり、水瓶の破片を集めた。そしてそれを貼り合わせ、なんとか水瓶の形にしてみせた。ところが、それはとても水を張ることなどできないしろものであった。
 わたしは水瓶を失ったのだ。永遠に。


No.100

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