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坂をのぼるように

 引っ越した先は坂の多いところだった。もちろん、何度か下見をした上でその部屋に決めたのだから、坂の多いのはもとより承知の上だったのだけれど、一応持って来たそれまで使っていた自転車も、この調子だとさほど出番がなさそうだと思った。なにしろ、坂のほぼてっぺんがぼくらの越す先だったからだ。自転車を使うにしても、行きはくだりで快適だろうが、帰りはのぼりだ。考えるだけでも息が上がる。そもそも、歩いてのぼるのもかなり大変な坂道なのだ。
「いい運動になりそう」と、彼女は言った。
「フィットネスジムは解約しよう」と、ぼくは言った。
「行ってたっけ?」と、彼女は笑った。
 ぼくは肩をすくめた。
 その場所に決めたのは単純な理由で、ぼくと彼女、ふたりの経済状況を鑑み、またお互いの職場へのアクセスを考慮した、そんな連立方程式の解がこの場所だったのだ。平たく言えば、家賃が手ごろで、立地もまあまあ、ということ。それ以外に決め手はない。
 最寄り駅の前は商店街になっていて、大抵はそこで買い物をした。個人商店が軒を並べる、昔ながらの商店街だ。八百屋やパン屋、肉屋には揚げたてのコロッケが置いてある。酒屋には軽く一杯やるスペースもあって、地元のおじさんたちが簡単な宴会を開いているのをよく見かけた。少し足を伸ばせば大型のショッピングモールがあったが、徒歩で行くには遠いし、自転車となると帰りの坂道を考えるだけで息が上がりそうで、自然と商店街で買い物をするようになった。その商店街を抜け、坂道沿いの住宅街をのぼっていくとぼくらの部屋がある。
 生活は少しずつ軌道に乗った。あくまでも少しずつだ。吹けば飛ぶようなそれであっても、生活は生活である。ゴミ出し、ご近所づきあい、様々な「初めて」がぼくらに襲い掛かり、はじめはギクシャクと危なっかしい足取りではあったが、次第に調子が出て来て、リズムが作られていく。一度リズムが出来れば、それに乗ってしまえばあとは簡単だ。張り詰めたものも弛んでいき、休日にはしっかりと息抜きができるようになった。そうなって初めて、自分がそれなりに緊張していたことに気がついた。そんなものだ。
 平日は外食や出来合いのもので済ませることがほとんどだったけれど、休日の夕食は隔週で代わる代わる作ることにした。ぼくも彼女も料理は苦手だったけれど、そう贅沢ばかりもしていられない。その休日の夕食で、食べる側に徹したあとには、翌週自分が作る番なわけで、そうなるとその週の平日は何を作ろうか考えながら過ごすことになった。それはそれなりに悪くなかった。ぼくも彼女も料理は苦手だったけれど、どちらもそれが嫌いだったわけではなさそうだった。
 食事をして、缶ビールを飲みながらとりとめなく話す。なんとも満ち足りた時間。
「それにしても」
「なに?」
「坂の多いところだね」
「そうね」
「歳をとったら大変だ」
「おじいさんとおばあさんになったら」
「そう」
「それまで一緒にいるかしら?」
「なるほど」
「なるほど?」
「確かにそういうこともありうる」
「冗談よ」
 次の日には、坂をくだって仕事へ行く。そうして一週間坂をくだって、のぼって、休日が来る。いつか、坂をのぼるのに難儀する時が来るだろうか。歳をとって、杖をつきながら、息を切らして坂をのぼる時が。
「明日のことくらいしか考えられないわ」
「明日が終わって、明日が来て、それの繰り返し。そんなのあっという間だろう」
「そうして、おじいさんとおばあさんになるわけ?」
「そうかもしれない」
「なんだか、うんざり」
 そうして日々は過ぎる。坂を一歩一歩のぼって行くように。


No.504


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