見出し画像

愛の学校のはじまりとおわり

 男は愛を知らなかった。内陸の土地で生まれ育った人間が海を知らないように。残念ながら、男が産まれてこのかた、愛が男の身近にあったためしがなかったのだ。それを見たことも、それに触れたこともなければ、それの匂いを嗅いだことも、それを味わったこともなかったのだ。海を知らない人が、海の広さや、その冷たさや、波の感触や、その塩辛さを知らないように。あるいは、説明をされたことはあって、言葉としては知っていたとして、それがそれを知っていることになるだろうか。はたして、男のいるところから海まではどれくらいの距離があるものか。
 そんな愛を知らない男を不憫に思った女がいた。一般的に見て、愛を知らないということは憐れまれるべきことだと考えられるのだ。そこで、その慈悲深い女は愛を知らない男に愛を教えることにした。愛の学校の始まりである。
「で、先生」と、男は挙手して言った。「それはどんな色をしてるんだい?」
「色は」女は答えに窮した。そして、どうにか答えらしきものをひねり出した。「多分ないと思う」
「じゃあ、先生」男はまた挙手をして言った。「それはどんな形をしてるんだい?」
「形も」女はまた答えに窮した。そして、冷や汗をかきながら答えを絞り出す。「多分、ないと思う」
 匂いは?手触りは?味は?男は次から次へと質問を繰り出すが、女はことごとくその雨あられ降り注ぐ問いかけに答えることができなかった。
「とにかく」男は言った。「あれこれ講釈されるよりも、実際に見せてもらった方が早いように思うんだが」
 女は何も言えなかった。もちろん、愛を見せることもできなかった。なにしろ、女は愛を持っていなかったからだ。さらに言えば、女も愛を見たことがなかったし、それに触れたこともなければ、その匂いを嗅いだこともないし、それを味わったこともない。もしかしたら、愛に似たようなものを手にしていたことはあるのかもしれない。しかしながら、自分のその経験を人に教えようと改めてその経験を振り返ると、それが本当に愛であったのか、女は自信が持てなくなったのだ。男に教えようとするまで、女は自分が愛を知っていると思っていたにもかかわらず。
「さあ」男が急かす。「早く見せてくれよ」
 女は両腕を広げ、降参をした。「残念だけど、見せられないわ」
「なぜ?」
「私は愛を持っていないから」女は言った。「それに、実は見たことがないの」
「それなら」男は言った。「一緒に探してみないか?」
「そうね」女は答えた。「悪くないかも」
 その後、ふたりは愛を探したが、結局それを見つけることができなかった。ふたりで世界中を探し回り、どちらかの心が挫けそうな時には励まし合い、ふたりして行き詰まった時にはともに涙を流し、時には仲たがいして喧嘩もし、そうして長い時間をかけ、様々なところに足を運び、どうにか愛を見つけようとがんばった。あるいは、ふたりとも愛を知らなかったので、もしかしたら、どこかでみすみす愛を見逃したことが一度ならずともあったかもしれない。それが目の前にあるのにも関わらず、愛を知らないふたりはそれが愛だと気づかなかったのかもしれない。それを知らない二人は、もしかしたら、幸せだったのかもしれない。


No.535


兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?