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影の街

 影の街に迷い込んだことがある。冬の夕暮れのことだ。とても冷たくて強い北風の吹いている日だった。木々は震え、誰も彼も襟巻きを引き上げ、外套の襟を立て、歩く人たちはみな足早だった。ぼくは外套も襟巻きも持っていなかったから、凍えながら、ポケットに深く手を突っ込み、背中を丸め、俯きながら歩いていたから、いつ、どうやってそこに入り込んだのかはわからない。気づくとぼくは、影の街にいた。
 そこはなにからなにまでいつもの街と変わらないように見えた。一瞬、夕日に照らされているから違和感を覚えるのだと、そうぼくは思い込もうとしたほどだった。しかしながら、違和感は決定的なものがあった。思い込もうと思っても思い込めないくらいに。ぼくは冷たい風を我慢しながら、辺りをよく見渡してみた。それは影の街だった。よく似ているけれど、それは影の街なのだ。夕日に照らされたそれは、現実なのか、夢なのかわからなかった。轟々と耳元で風は鳴る。それは現実的な寒さであり、現実的な音だった。それは現実的な影の街だった。
 ぼくは自分の体の中の血液が冷たくなっていくのを感じた。血の気が引いていた。なにしろ、影の街にいるのだ。慌てふためくのも当然だろう。
 ぼくは思わず駆け出した。どこへ行けばそこから出られるのか、あてなど無かった。ぼくは影の街を歩くのは影の人たちの間を駆け抜けていった。けれど、影の人たちはぼくになどお構い無しで、ゆっくりと歩いている。ゆっくりと、どこかへ向かっている。ぼくになど関心は無いだろうし、あるいはぼくの存在に気づいてすらいないかもしれない。誰かに出口がどこにあるのかを尋ねることもできない。ぼくは何人もの影の人を追い抜き、かき分け、そして思いついた。
「彼女のところに行こう」ぼくは思わずそう声に出したが、誰ひとりとして振り返るものはいなかった。それでも、それは名案に思えた。彼女の部屋に行こう。彼女に会おう。そうすれば、きっと打開策が見つかるはずだ。
 そう決めたぼくは、駅に向かった。影の駅だ。影の駅には当然影の電車がやって来た。音もなく滑り込んできたそれに、ぼくは飛び乗った。ぼくの後ろから、影の人たちがゆっくりと、何人も乗って来た。電車の中は影の人たちでいっぱいになって、ぼくはとても居心地の悪い気がした。彼女の部屋の近くの駅までの辛抱だ。ぼくはそう自分に言い聞かせながら、影の人たちにぶつからないように体を小さくして、影の電車に揺られた。
 駅に着くと、ぼくは影の人たちをかき分けて飛び降りた。階段を駆け下り、改札を抜け、彼女の部屋に向かって一目散に走った。走りに走った。彼女の部屋までの道のりは体が覚えている。あっという間に、彼女の部屋の前に着いた。ぼくはドアの前で息を切らしていた。ドアノブに手をかけようとして躊躇った。自分を鼓舞した。ドアノブを掴み、ドアを開いた。
 そこはもぬけの殻だった。窓から西日が差し込んでいた。そう、西日のひどい部屋だった。床を染める赤だけが、ただそこにあった。
 そうだった、とぼくは思った。彼女はもういないのだ。彼女はもういない。ぼくは何度も自分に言い聞かせた。それまでにも、何度も自分にそう言い聞かせてきたから、それはお手の物だった。彼女はもういない。彼女はもういない。それでも、ぼくは彼女の気配を求めていた。そして、かすかなそれに気づいた。彼女のかすかな気配が部屋に残っていた。ぼくは慌てて部屋を飛び出すと、彼女を探した。まだ遠くには行っていないかもしれない。闇雲に走りまくった。見当なんてまったく無いのだ。本心を言えば、見つかるなんて思ってもいなかった。とにかく、走らずにはいられなかった。探さずにはいられなかった。だから、走って探しただけだ。
 それなのに、奇跡が起こった。彼女を見つけたのだ。もちろん、影の彼女だ。なにしろそこは、影の街だから。それでも彼女は彼女だ、ぼくは一も二もなく、その手首を掴んだ。けれど、それはあくまでも影だった。
 そこで目が覚めた。現実的なぼくが現実的な世界で目を覚ましたのだ。
 そして、ぼくは自分に言い聞かせた。彼女はもういないのだ。


No.291


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