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猫になりたい

 男は目が覚めると猫になっていた。開いた眼の最初に見たものは、見慣れない毛むくじゃらの猫の前肢が、見慣れた布団の上に放り出されているさまだった。身を起そうと手を動かすと、動いたのはその毛むくじゃらの足だった。どうやらそれは自分のものであるらしいと、男にはわかった。男はたいして驚きもしなかった。そういうこともあるものかと思った。虫になった男の話を聞いたこともある。そういうこともある。
 男は猫らしく体を目一杯伸ばすと、ひとつ息をつき、その寝ていたベッドから床に華麗な着地を決めた。まあこれも悪くはないか、と思った。男はすでに猫であったので、猫の言語で、猫の思考でである。
「吾輩は猫である」男は心の中でそう呟いてみた。その通り。猫である。
 時計を見る。時刻がいまいち理解できない。出社しなければならない時刻のようにも思えたが、判然としない。なにしろ思考しているのは猫のそれなのだ。猫は出社しない。出社しない猫に、その時刻がわかるはずもない。時刻に意味を与えるのはそれに縛られるもののみである。猫は時間に束縛されない。
 猫の体は身体はしなやかに動き、ベッドから飛び降りたその体の重みを、前足は完璧なまでに受け止め、着地の際には全く音が立たなかった。さすがに二本足で歩いていた名残があって、最初の一歩二歩はいささかぎこちないものになったが、男はすでに猫なので、三歩目にはまさに猫の歩き方をしていた。優雅に尻尾を揺らしながら、足音を立てずに歩くのは実に心地の良いものだった。
 見慣れた部屋。十年近く住んでいる。家電の類はガタがき始めていたけれど、まだどうにか動いていたし、家具は多少の妥協はあったかもしれないが、気に入ったものだし、なにより愛着がある。それは体の一部と言っても差支えの無いくらいに男に馴染んだものだった。男の存在の一部と言ってもいいだろう。しかし、猫の目で、猫の感覚で見る部屋は、まるで新世界のように鮮やかだった。机を脚の間をするりと抜け、ソファーに飛び乗る。どれもこれも初めてすることばかり。机も、ソファーも、それまでに持たなかった新しい意味を持っていた。男はその感動にため息を漏らしそうになったが、どうやら猫はため息をつかないらしく、それはできなかった。
 男の猫の耳は、そこで床の軋む音を聞いた。妻だ。妻が起きてきたのだ。男は自分のこの感動を妻と共有したいと思った。普段の男なら、決してしそうにないことである。いつもは、男は妻とほとんど口を利かない。業務連絡的なことならば、言葉を交わすが、それくらいのものだ。いつからそんな状態になったのかすらさだかではない。
 そして、猫になった男である猫はそれが男であった頃の妻の前に飛び出した。ところが、男は妻が猫嫌いなのを失念していたか、自分が猫であるのを度忘れしていたかなのだろう、妻はどこから入ったかしれない猫を見て、悲鳴を上げ、怒り出し、男を、男であった猫を追いかけ回し、男は男で猫の華麗なステップで逃げ回り、最終的に、どうにかこうにか無傷で事なきを得た。やれやれ、と男は思った。猫の思考で。男であったのは過去にことであり、それは猫である。
 かくして、男は猫になり、住み慣れた家を失った。そして、自分自身の才覚のみを頼りに生きていくことになったのだ。男がそれについてどう感じたのかはわからない。なにしろ男はすでに猫であり、猫が何を考えているのかを見透すことのできる人間が果たしているだろうか。


No.536


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