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悪い女の子

 彼女は悪い女の子だ。
 赤信号で横断歩道を渡るし、ゴミはそこらへんにポイ捨てする。タバコの吸い殻は排水口に投げ捨てるし、優先スペースに駐車する。飼っている小型犬を蹴っ飛ばして骨折させ、反撃にあって噛みつかれる。自転車にふたり乗りしているのを警官に注意されると「死ね」と吐き捨てるし、すぐに「クソ」と言う。正真正銘の悪い女の子だ。
 一度だけ、ゴミのポイ捨てを注意したことがある。
「いい?」と、彼女はまっすぐぼくを見据えて言ったのだった。「地球はわたしのゴミ箱なの」
 ぼくはあっけにとられ、肩をすくめた。そしてどうにか気を取り直し、「じゃあ、ぼくらもゴミだね」と言った。
「どうして?」と、彼女は首を傾げた。
「ここはゴミ箱の中だ。ゴミ箱の中にあるのはゴミだ」
 彼女はニヤリと笑って、ぼくを指差した。「ゴミ人間」
 ぼくは肩をすくめた。オーケー、ぼくはゴミ人間かもしれない。しかしながら、ゴミ人間であるのはぼくらだ。それはあくまでも複数形。ぼくらはゴミ人間だ。
 彼女は悪い女の子だけど、とてもかわいい顔をしている。スタイルもいい。おっぱいだって大きい。その肌は触れると吸い付くようだ。そして、そのバイキングかギャング並みの倫理観と同じ程度の貞操観念しか持ち合わせていない。
 つまり、そういうことだ。
「あんた悪くないかも」と、彼女は言った。
「そりゃどうも」と、ぼくは答えた。
 つまり、そういうことだ。
 彼女は悪い女の子だ。そして、彼女はぼくのガールフレンドではない。そういう所有の概念というものが恐ろしく希薄な彼女は、欲しいものは手に入れるし、誰にもなににも束縛されない。
 自由といえば聞こえが良すぎる。無軌道なだけた。
 彼女のことばかりを語るのはフェアではないだろう。
 ぼくのこと。
 ぼくは青信号をちゃんと待つし、ゴミはゴミ箱に捨てるし、タバコは吸わないし、車は運転しない。犬も猫も嫌いだから飼ったことがないし、とりあえず誰にでも丁寧な口調で接することを心がけている。たまに慇懃無礼だと言われることはあるにしても。そもそもそんなことを面と向かって言うのは無礼だとぼくは思う。
 別にぼくが高い倫理観の持ち主だからそうしているわけではない。つまるところ、周囲の目が気になるだけだ。もしもすべての人類が滅び、彼女とぼくだけになったら、ぼくは平然と赤信号でも横断するだろう。まあ、そのときは車が来る可能性なんてのはゼロなわけだけど。
 それでも、ぼくは悪い人間ではないと思う。いい人間かと言われると言葉に詰まる。悪くない人間というのが妥当なところに違いない。
「あんた悪くないかも」と、彼女が言った。
「そりゃどうも」
 彼女は最高だった。ぼくは簡単に彼女のとりこになり、彼女のすべての悪事を大目に見るようになり、完全なる彼女の擁護者となった。まあ、ぼくの力などたかが知れているけれど。
 端的に言うと、ぼくは彼女のことが好きだった。
 そのことを彼女に告げると、彼女は鼻で笑った。
「それだけ?」
 それだけ。
 真っ暗な部屋の中、ぼくは彼女の肌の余韻にひたっていた。それで、思い余ってそんなことが口をついて出たのだろう。
「あんた、愛がなんなのか知ってるの?」彼女は言った。そう言われてみると、急に自信が無くなった。ぼくが答えに窮しているのを感じ取って、彼女は笑った。
「あんたのこと、大好きだよ」と、彼女は言った。
 翌日、彼女は車で人を轢き殺した。相手は善良なおばあさんだった。信号無視、速度超過、前方不注意、その他もろもろ、完全に彼女の過失だった。轢き殺されたおばあさんが気の毒でならない。彼女は悪い女の子だ。
 彼女の、さみしそうな横顔が、いまも忘れられない。



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