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羊があまりにも多すぎる

 彼女に眠りが訪れなくなってから、もう三か月がたとうとしている。その三か月の間、うつらうつらと船を漕ぐことはあっても、深く眠ることはできず、一睡もできなかった。ベッドに入るとなおさらだ。どうにか眠りを引き寄せようと躍起になって、そうして四苦八苦していると、眠りは遠ざかって行ってしまう。そうしているうちに目は冴え、目をつぶっても眠気は見つからず、それでも瞼の裏にそれを懸命に探し、時計の刻む音が気になり、目を開くと明け方が近く、焦りは諦めに変り、仕事に向かう準備を始めるのだった。逆に仕事をしていると強烈な眠気に襲われ、うつらうつらし、懸命に目を開き、どこか頃合いを見計らって眠りたいと思うのだけれど、そのタイミングが来る頃には眠気は去ってしまっているのだった。その三か月、彼女は自分の眠気に振り回されどおしだった。
「はあ」と、彼女はため息をついた。ベッドに横たわり、天井を見ている。
「大丈夫?」と、彼は彼女の顔を覗き込む。「眠れない?」
「うん」と、彼女は首を横に振る。「全然」
「薬も?」
「効かない」
「困ったね」
 彼女は黙っている。何かを考えこんでいるようだ。
「どうしたの?」彼は尋ねた。
「わたし」と、彼女はポツリと言った。「眠りたくないのかもしれない」
「どうして?」と、彼は言った。
「怖いのかもしれない。眠るのが」
「怖い?」
「もし眠って、そのまま死んでしまったらどうしようって怖くて、眠れなかったことがある。子どもの頃」
「大丈夫だよ」と、彼は言う。「死んだりしない」
「悪い夢を見るかもしれない」
「もしもそんなものがやって来たら」と、彼は言った。「ぼくが食べてあげるよ」
「夢を?」
「そう、夢を」
「変なの」
「そうかな?」彼はそう言うと、彼女に毛布を掛けた。
「羊でも数えてみようかな?」と、彼女は毛布を口元まで引き上げながら言った。
「羊を?」
「そう、羊。眠れない時に数えるでしょ?」
「それはどうかな?」
「いくら数えても眠れなかったらどうしよう。何万も、何億も、何兆も、何京も、その先はわかる?」
 彼は肩をすくめた。
「とにかく数えて、数えて、それでも眠れなかったら。わたしがおばあさんになってしまうまで羊を数え続けても眠れなかったら」
「君が眠るまでそばにいるよ。だから、怖くない」
「おばあさんになっても?」
 彼は頷いた。「さあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
 彼女はそう言い、目を閉じた。やはり眠りは訪れなかった。そこで彼女は羊を数え始めた。一匹、二匹、三匹。いくら数えても眠りはやって来ない。彼女の思った通り。またこうして眠れない夜を過ごすのかと、彼女が思った瞬間、すうっと、浮遊するように、彼女は眠りに落ちた。それは落下だった。落ちる瞬間、彼女は彼が誰だったのか不思議に思った。彼女は独身で一人暮らし、恋人もいない。彼女のベッドサイドで会話を交わした彼は誰だったのだろう、と思いながら、彼女は眠りに落ちた。
 彼女は夢を見た。羊の夢だ。彼女の目の前で、羊は足元の草を食んでいる。一心不乱で、彼女に気づく気配すらない。彼女はそれをジッと見ていた。動物が何かを食べる姿を見るのはどうして面白いのだろう。一心不乱に草を食む羊を、彼女は凝視する。気づくと、羊がもう一頭増えていた。その羊もまた、一心不乱に草を食んでいる。その羊に気づいた瞬間、もう一頭の羊が現れていた。もちろん一心不乱に草を食んでいる。そして、それに気づくと同時にもう一頭、さらにもう一頭と、羊は増えて行った。あっという間に辺り一面白い羊でいっぱいになった。見渡す限り羊だらけで、果たしてその羊の群れがどこで途切れるのか、それすらも見えないほどだった。どの羊も一心不乱に草を食む。しかしながら、それだけの羊が同時に食べられるほどの草があるはずもなく、地面は丸裸になり、土が露出し、ついには砂漠になった。とはいえ、それを覆う羊たちで、地面を見ることはできない。彼女が後ずさりし、足元が砂になっていることに気づいたのだ。後ずさりと言っても、半歩できたかどうか、彼女は羊に取り囲まれていて、どこにどう動こうと羊にぶつかってしまい、身動きなんて取れないのだ。
 羊は草を食べつくしてもなおその食欲は衰えるところはないらしく、一斉に彼女を見て、口をモゴモゴと動かしている。まるで、頭の中で彼女を食べることを想像し、思わず口が動いてしまっているかのようだ。
 彼女は怖くなって、逃げ出そうとしたが逃げ場などない。なにしろ、羊たちに取り囲まれているのだ。
 そこで、彼女は目を覚ました。
「ここはどこ?」と、彼女は彼に尋ねた。
「ここは夢の中だよ」と、彼は言った。
「怖い夢を見た」
「大丈夫、それも夢だし、これも夢だ」
「これも夢?」
「そう、これも夢。さあ、おやすみ」
「おやすみ」
 夢の中、彼女は海辺にいた。隣には彼が立っている。羊は一頭もいない。海の果てから風が吹いてきていて、波の音が聞こえる。羊は一頭もいない。
「羊は?」
「全部食べたよ」と、彼は言った。
「ホントに?」
「ホントに」と、彼はお腹をぽんぽんと叩いた。「あまりにも羊が多すぎた。お腹いっぱいだ」
 水平線が明るくなってきた。
「朝が来る」と、彼は言った。
「これは、夢?」と、彼女は尋ねた。
「うん」と、彼は頷いた。「これは夢だ。そして、もうすぐ目覚める時間だよ」
「眠れたんだね」
「なにも怖くない。大丈夫だったろ?」
「あなたは、誰?」
 アラーム、アラーム、アラーム?彼女は目を開き、枕元で鳴っている目覚まし時計を止めた。朝だ。
「おはよう」と、彼女は誰もいない部屋に向かって言った。


No.428


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