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君ノ声

 昔、付き合っていたガールフレンドがしてくれた話だ。
 とても暑い夜だった。その当時、貧乏学生だったぼくの部屋にはエアコンは無くて、古い扇風機が力なく回るのが精一杯の冷房設備だった。
 彼女はぼくよりも少し年上で、ちゃんとした会社勤めをしていて、ぼくよりもだいぶお金を持っていた。外で食事をするようなときにはいつも彼女が支払いをしてくれていたし、ぼくのクローゼットにあるのは彼女に買ってもらった洋服ばかりだった。
「隣を歩いているのが汚い恰好をしたのだったら嫌だから」
「犬に服を着させるタイプだね」
「そういう下手な皮肉、嫌いじゃないよ」
 ぼくは弟がいる長男なのにもかかわらず、これまで付き合ってきたガールフレンドたちはみな揃ってぼくの世話を焼きたがった。母性本能をくすぐるとかだろうか。いや、単にぼくがダメなやつで、放って置けないほど慈悲深い女性たちがこの世には少なからず存在し、それが彼女たちだったのだろう。
 まあ、いい。
 そのガールフレンドは、ちゃんとしたマンションのちゃんとした部屋に住んでおり、ちゃんとしたエアコンがその部屋にはあったのだけれど、ぼくの部屋で過ごすのを好んだ。
「君の部屋にぼくが入るのがイヤなの?」
「違うよ」と、彼女。「この部屋が好きなの」
 その夜も、ぼくらはその暑い部屋にいた。熱帯夜続きの夏だった。ぼくは上半身裸のパンツ一丁、彼女も下着しか身につけていなかった。窓を全開にし、テレビでは野球中継がやっていて、蚊取り線香の匂い、ぼくはぬるいビールを飲んでいた。彼女はぼんやりと窓から外を眺めていた。眺めるようなものなんてないような窓だったけれど。外にあるのは住宅街。遠く、高層ビル群が頭のあたりに赤い光を明滅させているのが覗く。
「昔さ」と、彼女は言ったのだった。「付き合っていた人がしてくれた話」
「うん」と、ほろ酔いのぼくは言った。
「彼がまだ子どものころ、ペットショップの前を通りかかったんだって。子猫や、子犬のショーウィンドウ。彼はそういう動物が好きだったんだけど、団地住まいだったから飼えなくて、そうなると憧れちゃうじゃん。で、そこで子猫を見てたんだって。信号待ちの、ほんの少しの間だけ。そしたら、子猫と目が合ったんだって、そう言うの。『その子猫はぼくのことをじっと見てた』って。わたしは『心を打ち抜かれちゃった?』みたいなことを言って茶化したんだけど、彼は首を横に振って『その子猫はぼくを見ていたんだ。ぼくは子猫に見られていることに気づいた。それまで、自分が見ることのことばかり考えていて、自分が見られることがあるなんてこと、考えたこともなかったんだと思う。ぼくは驚いたんだよ』
『変なの』ってわたしは言った。だって、変でしょ?誰かに見られることなんて、当たり前だから」
「うん」と、ぼく。
「そしたら彼、なんか遠くを見つめて、『あの子猫の目にうつったぼくは、まだどこかに残っているんだろうか』って言ったの」
「ふうん」ぼくは缶ビールの最後の一滴を流し込んだ。ぬるくて、苦いばかりのビールだった。
「やきもち焼いてる?」と、彼女はぼくを覗き込んだ。
「どうして?」
「前の彼氏の話されて、楽しい人はあまりいないんじゃないかな?」
 ぼくは肩をすくめた。
「いいね、その仕草」と、彼女は言った。「やれやれ、とか言い出しそう。気取った感じで」
「やれやれ」
「バカみたい」
 そうしてひとしきり笑って、彼女はポツリと呟いた。
「あの、彼の顔、どんなだったか、もう全然思い出せないな」
「君の目にうつる」と、ぼくは言った。
「え?」
「ぼくがどんなだかも、ぼくは知れない」
「逆もね」と、彼女。そして肩をすくめる。
「やれやれ」
 彼女と別れた理由は覚えていない。そんなものだろう。そして、彼女がどんな顔をしていたのかも、ぼくは思い出せない。あの頃のぼくの姿は、どこかに残っているのかな?たとえば、彼女の脳の片隅にとか。
 こんな話を聞かされている君はとても退屈そうで、頬杖つきながらぼくを見ている。君の目にうつるぼくはどんなだろう?それはいつか忘れられてしまうのだろうか?


No.511


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