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アメリカの夜

 映画俳優である彼は人気の絶頂であり、出演する映画はどの映画も大ヒットの連続、当然引っ張りだこの引く手あまたで、出演作も増える一方、どの映画館のスクリーンにも彼の顔が映し出されているような状態である。若い娘たちはその顔に熱狂し、若い男たちはそれに自分を重ね合わせ、たとえ姿形が似ても似つかなくても、彼の颯爽たるスクリーン上での姿に自分を投影し、肩で風を切りながら歩いた。誰もが彼に夢中だった。スクリーンの彼に夢中だった。
 現実の彼が、悪夢にうなされている。どの役でもなく、スクリーンに映し出されたのでもない、現実としての彼。その傍らで、彼の恋人が心配そうに見ている。心の底から心配しているが、どうしたらいいのかわからず、おろおろするばかりだ。そうしているうちに、彼は目覚めた。飛び起きるように目覚めた。汗だくになって、寝間着がぐっしょり濡れている。
「大丈夫?」恋人はおずおずと彼に尋ねた。「すごくうなされてた」
「悪い夢を見た」彼は額の汗を拭いながら言った。「俺はあのスクリーンの上にしか存在しない人間で、映写機が止まるとパッと消えてしまうんだ。何も無かったみたいに」
「大丈夫よ」と恋人は彼の背中をさすった。「あなたは消えたりしない。みんなあなたのことが大好きじゃない。あなたの人気が衰えるなんてことはないわ」
「そういうことじゃない」彼はかぶりを振った。「おれは映写機の照らす光でスクリーンに写し出された影に過ぎなかった、ってことなんだ。光が無くなれば、存在自体が無くなってしまうって夢なんだ。俺も、お前も、この世界の何もかもが、ただの影なんだ。スクリーンの上で踊る影なんだよ。恐ろしくないか?自分が影に過ぎなくて、現実に存在しないのだとしたら」
「そうね」と恋人は言ったが、彼女にはよく理解できていなかった。彼女にとって彼は彼女の手のひらに温もりを与える背中だったからだ。それは確固としたものとしてそこに存在していて、それが影かもしれないと不安になる理由など彼女にはなかったからだ。
「カット!」
 監督のその声がかかると、彼も、その恋人役である女も、体から力を抜いた。それまで絶望の表情だった彼の顔も、たちまち穏やかになる。彼らの寝室、もとい、彼らの寝室のセットは照明がついて明るくなり、多くのスタッフがなだれ込んでくる。
「素晴らしい演技だったよ」と、監督が近づいて来て彼に言った。「真に迫っていた。根源的な不安を実に上手く表現できていたよ。存在論的不安、とでも言うのかな?」
「ありがとうございます」彼はタオルで汗を拭いながら言った。
「君の演技を見ていたらわたしまで不安になるくらいだ。もしかしたら、自分がただの影なのではないかとね」
「ははは」と彼は笑った。「それは芝居の中でだけのことですよ。それこそ、スクリーンの上での出来事です。ぼくも、監督も、こうしてちゃんと存在してるじゃないですか」
「もちろん、わかっているよ」と、監督も笑った。
「違う」と恋人役の女が言った。「わたしたち、本当はスクリーンの上の影なの」その声には冗談めかしたところはなかった。
 彼と監督は女をジッと見て、なにか続けて言うのではないかと待ち受けた。しかし、女は何も言わなかった。彼と監督は顔を見合わせた。
「ははは」彼は笑った。「おもしろい冗談だ」
 彼女は笑っていなかった。そして、指をならす。映写機が止まり、彼の姿も、監督の姿も、いや彼らのいた世界すべてが消え失せた。何もかもが消え失せだ。そこにあるのは真っ白なスクリーンだけとなった。彼らは影に過ぎなかったのだ。映写機の作り出す影の踊る姿が、彼であり、監督であり、その世界だったのだ。
 恋人役の女が舞台袖からツカツカと歩いてきた。そしてこちらを向く。
「これも嘘」と恋人役の女は言った。「あるのは文字だけ。スクリーンなんてない。そして、この文章はこれでおしまいだから、この世界はここで終わる」


No.267

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