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三文小説家

「君はきっといい書き手になるわ」と彼女は言った。彼女とぼくは同い年なのに、いつも彼女は彼女がまるでぼくの姉ででもあるかのような口調だった。ぼくには五歳年上の、結婚して娘のいる姉がいた。彼女には弟がいた。高校の時に自殺した弟が。
 彼女と出会ったのは大学のオリエンテーションのときだ。右も左もわからずに、手探りで友人を作ろうとしている新入生たちの中で、ぼくたちは完全に浮いた存在だった。たぶん、誰とも喋ろうとしなかったのはぼくと彼女だけだ。
 ぼくは世の中のもの全部が馬鹿馬鹿しいと思っていた。若い頃にはよくあることだ。彼女が何を思っていたのか、ぼくにはわからない。それは結局わからずじまいになる。
 ぼくが彼女と関わるようになったきっかけは、ぼくがオリエンテーションの資料として配られたプリントにしていたいたずら描きだ。ぼくはその頃、漫画家を目指していた。普通に就職して、会社員になるなんてうんざりだと思っていた。自分の力だけで生きて行きたかった。しかし、それにしてもその手段として選ばれたのが漫画であったのはなぜだろう。そこらへんは若気の至りとしか言いようがない。
「それ、わたし?」と、彼女はぼくの描いていた絵を見て言った。確かにぼくは女の子の絵を描いていた。ぼくは自分の絵が見られた恥ずかしさに頬を赤らめた。
「わたしの絵?」
「え?」
 ぼくが描いていたのはモデルなんて存在しない女の子だった。もしかしたら、そこにはぼくの理想が投影されていたかもしれないけれど。
「違うよ」とぼくは答えた。事実違ったし、その絵と彼女を見比べてもちっとも似ていなかった。
「似てる」と彼女は言った。
「似てないよ」とぼくは言った。
 そんな風に、ぼくらは出会った。
 ぼくが小説を書くようになったきっかけは彼女の一言に他ならない。
「君には漫画よりも小説の方が向いていると思う」と彼女は小さな声で言った。ぼくらは図書館にいた。ぼくらがいるのは大抵図書館だった。学食はいつも騒々しくて、ぼくらの居場所としては適さなかった。ぼくらは静寂を好んだ。それに、ぼくも彼女も本を読むのが好きだった。
 その頃もよく勘違いされたのだけど、ぼくらは恋人同士というわけではなかった。その関係は、コンビというのが最も近いように思う。それは二人で一揃いの存在。
 彼女のその発言はとても唐突だった。
「君は小説を書くといいと思う」
 彼女が読むのは外国の小説が多かった。ぼくの読むのは推理小説だった。
「え?」とぼくは聞き返した。
「小説」
「小説?」
「うん、小説」
 そんなことはそれまで考えたこともなかったから、ぼくは考え込んだ。
「いったいなんでそんなことを思ったの?」とぼくは尋ねた。
「なんとなく」と彼女は答えた。それからしばらくして、夏休みになった。
 夏休みの間、ぼくは試しに小説を書いてみることにした。平日は学校の図書館が開いていたので、そこで書いていた。原稿用紙に手書きでだ。まっさらな原稿用紙は誰も足跡をつけていない雪原のように足を踏み入れるのに躊躇われたけど、同時にそれを汚すのは快楽でもあった。矛盾するけど、そういうものだ。図書館には彼女も来ていて、遠い国の小説を読んでいた。休みはあっという間に過ぎていった。その年のぼくの夏は、その一編の小説に捧げられることになったのだった。
 最初の読者は当然彼女だった。というか、彼女以外にそれを読んでくれそうな相手はいなかった。ぼくは原稿を彼女に渡した。彼女はそれを無言で受け取った。翌日には、彼女はそれを返してくれた。
「面白かったよ」と彼女は言った。
「本当に?」とぼくは尋ねた。彼女の様子に何か引っ掛かるものを感じたのだ。しばらくそうして食い下がっていると、彼女はようやく本当の感想を言ってくれた。
「本当に面白かったと思うけど、何か足りない」
「何が?」
 彼女は顎に手を当て考え込んだ。名探偵が推理をしているようだった。
「人を殺したことはある?」
「は?」
「君、人を殺したことはある?」と彼女は明瞭に発音しながら言った。
「無いよ」とぼくは首を横に振った。いかなる意味でも、ぼくは人を殺したことは無かった。
「たぶん、だからなのよ」と彼女は言った。「何か足りないのは、それ」
「人を殺さないと良い小説が書けないとでも?」
「ええ」と彼女は頷いた。それは確固たる動作だった。自信に満ち溢れ、誤謬などあり得ないと思わせるような。
 そうして、ぼくは彼女を殺したのだった。
 その詳細を、ぼくは書きたくない。いや、彼女を殺してからというもの、文章というものを一切書かなくなった。ぼくにはもう語るべきことなどないのだ。殺人という事実は、それを拒否する。

No.269

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