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山奥の子どもたち

 彼は首都の、それもかなり裕福な家の出だったから、子供の頃から海外へ旅行をすることも多かったし、学生の頃にはバックパッカーの真似事をして、世界各地を旅して回ったりしていたから、自分にはそれなりの見聞があるものと考えていた。もちろん、そうした裕福な生活を送ってきた子供の常で、彼もまた多分に理想主義的で、ロマンティストでもあったから、親たちは反対したけれど、卒業後には教師に、しかも山奥の学校の教師になることにしたのだった。
「ぼくが今までしてきたこの経験を」と彼は両親を説得したのだった。「山奥の、純朴な子供たちに伝えたいんだ。この世界の広さと美しさを」
 もしかしたら、彼を送り出した両親は彼の挫折をわかった上で送り出したのかもしれない。大抵の理想は挫かれるものである。彼よりも少しばかり多くの経験を積み、大人である彼の両親は、その現実を知っていたから、いずれ彼の帰ってくることがわかっていたから、彼をしぶしぶながら送り出したのかもしれない。
 かくして彼は山奥の学校の教師となった。首都育ちの彼の目にはそこは楽園のように映った。手の届きそうなほど近い青空と、青々とした棚田の連なる、首都の喧騒とはかけ離れた美しい世界だった。
「まるで幻想の世界にいるようです」と彼は両親に書き送るのだった。「毎朝目覚める度に、ぼくはまだ夢の中にいるのではないことを確認するために頬をつねります。そして、ぼくは毎朝驚くのです。この美しい世界が夢や幻ではなく、ぼくの目の前に現実として存在していることに」
 彼は彼の理想と考える教育を、その山奥の子供たちに施した。彼の重んじたのは、実際に手で触れ、匂いを嗅ぎ、耳を澄まさせ、場合によっては味わうことだった。抽象的な概念を弄ぶことからは何も産まれないと彼は考えた。体験こそが重要だった。昆虫の観察のために山歩きをし、薬品を調合してアンモニア臭を嗅いだ。首都からやって来た教師を、山奥の親たちは怪訝そうに迎え入れたのだが、そうしたそれまでと少し異なるやり方を目にすることで、その疑いにも似た懸念、子供たちに妙なことを教え込むのではないか、という気持ちはさらに募ったのだが、子供たち自身はというと、彼のことを気に入り、その教育を楽しんだのだった。彼としては、できることなら親たちにも理解してもらいたかったが、何よりも彼の関心を引くものは子供たちであり、彼らの正しい成長以外はなかったから、それはそれとして満足していた。
 ある日、彼は子供たちに絵を描かせることにした。
「何を描いてもいいよ」と彼は子供たちに言った。「何でも、君たちの描きたいと思うものを描いてごらん」
 そうは言ったものの、彼の内心を詳しく調べれば、画題としてその山奥の美しい景色を描いてもらいたいという心持ちが見付かったに違いない。彼の愛する美しい景色。当然、子供たちもそれを誇らしく思っているだろうし、彼にもまして、なにしろそれは彼らの生まれ故郷の景色なのだから、それを愛しているものと、彼は思っていたからだ。
 そうして、その課題の提出日がやって来た。子供たちが次々持ってくる画用紙に、彼は自分が落胆していることに気付き、何を描いてもいいと言ったにも関わらずそうして落胆する自分が、何を描いてもらいたいと思っていたのか、何を期待していたのかを見出だし、そのことに落胆した。自分は本当に何を描いてもいいなどとは思ってはいなかったのだ。
 子供たちの絵は、彼らの行った事のない土地の、大抵は首都の街並みの絵だった。とはいえ、それが首都の街並みであることを彼が知るのは、それを描いた子供にそれが何なのかを尋ねた時だった。
「これはどこの絵?」
「先生が来たところよ」
「行ったことがあるの?」
「ううん」とその子は答える。「想像して描いたの」
 山奥の親たちは、みな農業に従事していたし、子供たちもその手伝いをさせられていたから、その土地から出たことなどなかったのだ。だから、首都を知らない。その山奥しか知らない。それは、その絵を見れば明らかだった。それは首都ではなかったからだ。その子の想像の世界にある街並み。彼はそれを、不覚にも美しいと感じた。彼の見たどんな街並みよりもそれは美しかった。ある子は見たことのない海を描いていた。彼はまた、その海の絵がとても美しい、世界のどんな実在する海よりも美しいと感じた。どこにも存在しない、それを描いた子供の想像力の中にしか存在しない海。彼は窓の外を見た。美しい棚田がそこにはあった。美しい青空がそこにはあった。いや、それは棚田であり、青空でしかなかった。そこにあったはずの美しさは、どこかへ行ってしまっていた。あるのは現実だけだった。そして、彼は教室に視線を戻した。そこには子供たちがいた。ただの子供たち。
 その日、授業を終え自分の家に帰った彼は、荷物をまとめ始めた。


No.259

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