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背の高い彼

 背のとても高い人と付き合っていたことがある。本当に背が高くて、天をつくとはまさにそのこと、頭に雲がかかるのではないかというくらいだった。そんなことを誰かに話すと、絶対に嘘だと言われるけれど。
 わたしはと言えば、子どものころから背の順で並ぶと絶対にいつも一番前になるくらいずっと背が小さくて、大人になってからも、お酒を飲もうと思えば必ず年齢確認されたし、夜のカラオケには身分証がないと入れないような有様だった。とはいえ、別にそれがコンプレックスだったとかそういうことはないし、その反動みたいなもので、付き合う人はみんな高身長だったということもない。わたしとそれほど背の高さの変わらない人と付き合ったことだってあるし、ほとんどは平均的な身長の人だったと思う。こんな風に言うと、ものすごくたくさんの人と付き合ってきたみたいな感じだけど、そんなことはない。たぶん、普通くらい。普通がどのくらいかはわからないけれど。で、付き合った人たちにはそれぞれの人にそれぞれのいいところがあり、そこに惹かれて付き合うことになったのだ、と思う。
 彼の場合、その背のとても高い彼の場合は、彼がとても優しいところが好きだった。大型犬的な優しさ。セントバーナードとか、ゴールデンレトリーバーみたいな。大型犬はみんな優しい。きっと、体の大きい生き物は優しいのだろう。もしもそんな大きな生き物が暴虐だったとしたら誰も手がつけられない。神様だってさすがにそんな理不尽なことはしないはずだ。どんなに理不尽な神様だとしても。
 荒れ狂う象が家を壊しているのをテレビで見たことがあるけど。あれには荒れ狂うだけの事情があったのだろう。そういうこともあるに違いない。
 彼と付き合うのはなかなか大変だった。一緒に歩くだけで一苦労なのだ。わたしと彼の歩幅はあまりに違うので、彼と一緒に歩くときにはいつもわたしは小走りで、うっかりすると、間違って彼に踏みつぶされかねない。もちろん、優しい彼がわたしがそこにいるのに気づかないで踏んづけるなんてことはないだろうけど、それでも、その長い足が自分のすぐ脇を動いているのはなかなかに怖いものなのだ。こんなことを誰かに話すと、絶対に嘘だと言われるけれど。
 優しい彼は、わたしがなにかに傷ついているとすぐに気づいてくれた。前髪が上手く決まらなかったとか、仕事で失敗したとか。
 ある夜、わたしは理不尽なクレームにさらされ、ひどく傷ついていた。本当に理不尽なクレームだった。絶望的に理不尽な神様でもしないような理不尽なクレーム。どうやってそれを察したのか、落ち込むわたしを彼は迎えに来てくれた。
「どうして」と、わたしは彼に尋ねた。「迎えに来てくれたの?」
「君が傷ついていたのが見えたから」と、彼は答えた。背の高い彼からすれば、なんでもお見通しなのだ。
 わたしは彼に抱きついた。彼の、足に。わたしの背が小さいのでそのあたりまでしか届かないのだ。そして、彼を見上げる。彼はわたしの頭を撫でると、その手を夜空に向かって伸ばした。それはぐんぐん伸びていった。わたしが想像するよりも長く、その手は夜空に浮かぶ満月にまで届いてしまった。驚いたわたしがなにか言う前に、彼はその満月を指でつまむと、パキリと折ってしまった。わたしは声も上げられなかった。そして、その折った月の欠片を、彼はわたしに差し出した。目の前で見ると、それはとても強く輝いていて、ほんのり温かかった。
「月」
「うん、月」
「食べな」
「え?」
「食べるときっと、元気になる」と、彼は言った。
 わたしは月の欠片を手渡され、それをジッと見た。彼の視線、わたしがそれを食べるのを待っている。
「欠けてしまって」と、わたしは夜空に残った月を見上げる。欠けて、三日月になっている。「大丈夫なの」
 彼が頭上はるか高くで肩をすくめるのを感じた。「大丈夫だよ。いつも欠けたり、満ちたりしているんだもん」
 わたしは恐る恐る前歯でそれを噛む。簡単にそれは割れた。意外なことに、おせんべいみたいな味がした。「おいしい」
「でしょ?」と、彼は言った。
 元気になったかはともかく、それは本当においしかったし、月はまたその翌日から満ちはじめ、なにもなかったみたいに満ち欠けを繰り返した。
 彼と別れてしまったのは、わたしが洗面所の電球を換えてしまったからだ。
 わたしの部屋に彼が遊びに来た時、洗面所の電球がちょうど切れた。
「こんど換えてあげるよ」と、彼は言った。
 そう言われていたのを忘れて、わたしはその電球を換えてしまったのだ。椅子に上れば、背の低いわたしでも電球は換えられる。
 それがすでに換えられているのに気づいた彼は、見るからにひどく落胆していた。別に他の背の高い人がわたしの部屋にやってきて、電球を換えたんじゃないかと疑っていたわけではないと思う。ただ単純に、自分の出番だ、と思っていたところが奪われてしまったのが悲しかったのだと思う。
 それからしばらくして、わたしたちはお別れすることになった。もちろん、電球の一件が原因だと思うのはわたしの勝手な思い込みかもしれない。


No.452


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