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小さな黒いモヤモヤ

 エレベーターに乗っていると、その壁になにか小さくて黒い綿のようなものが着いているのに気づいた。かすかに動いたような気がした。もしかしたら、空調の作る風のせいなのかもしれない。いや、もしかしたら小さな虫だろうか。気になったわたしは、それに顔を近づけ、子細に眺めてみることにした。
 わたしが虫好きで、もしも珍しい虫であれば捕獲しようと考えたからではない。むしろわたしは虫嫌いであり、それが虫であった場合、距離をとって身をこわばらせておくためである。エレベーターに乗っているのはほんの数十秒であり、その人生におけるほんの束の間といって良い、いや束の間とすら言うのにも足りないような一瞬も、わたしはどんな虫とも一緒に過ごしたくない程度に虫嫌いなのである。しかしながら、そうであれば、虫の可能性がほんの些細なものであれあるのなら、最初からそれと距離をとっていればいいのだ。わざわざ近寄って、それが虫であるか、虫でないかを確かめる必要など無いはずなのだ。ところがそこがわたしの愚かなところというか、それに白黒つけたくなってしまう。ほんの一瞬でも、安心ができるものならそれに飛びつきたい。それが虫でないことを確かめたい、その一心で、わたしはそれに顔を寄せたのだ。
 果たして、それは虫ではなかった。わたしは一瞬ホッと胸を撫で下ろし、すぐさま胸騒ぎに襲われた。それは胸騒ぎを催させるほどに、なにかわからなかったからだ。糸くずかなにかであれば、いや虫であったとしても、わたしはどれだけ心安らかにエレベーターのドアの開くのを待っていられただろう。
 それは小さな黒いモヤモヤだった。物質のようであり、はたまたもっと観念的ななにかのように掴みどころがない。正体不明のなにか。それがなんなのかを確かめよう確かめようと顔を目一杯近づけたとき、それが動いたような気がした。わたしは驚き、息を呑んだ。その一息が間違いだったが、それは反射に近かった。思わず呑んだのだ。そして、その一息で、わたしはその小さな黒いモヤモヤを吸い込んでしまったのだった。
 それは苦もなくわたしの口を、気管を通り、胸まで到達したようだった。わたしはむせ返った。その小さな黒いモヤモヤがわたしの胸をくすぐったからではない。それには味も匂いも感触も無かったのだと思う。半ばはわたしの思い込み、半ばはどうにかそれを吐き出してしまいたいというわたしの願望からのむせ込みだった。
 わたしがそうしてゼェゼェいいながら喉元を押さえているとエレベーターのドアが開いた。乗り込もうとその前で待っていた人は怪訝そうな顔つきでわたしを見ていたが、わたしは釈明のひとつもせずに洗面所に駆け込んだ。水を出し、それを口に含んで何度もうがいをする。もちろん、そんなことをしたところで胸の中の小さな黒いモヤモヤは出て来ない。洗面所を一面水浸しにしてやっとわたしは諦めた。諦めざるを得なかった。胸に入ったそれを追い出すことはできなさそうだ。わたしは鏡にうつった自分の顔を見た。小さな黒いモヤモヤを吸い込んだ自分に、なにか変化が起こってはいまいかを確かめたかったのだ。いくぶん顔色が悪いようにも思えたが、さしたる変化は無かった。無いように思えた。しかし、わからない。そうして自分を検分したことなど無かったからだ。比較対象が無い。
「大丈夫だ」わたしは自分に言い聞かせた。「大丈夫。ホコリかなにかだ。気持ちのいいものではないが、毒ではないだろう」
 それでも、違和感のようなものは消えない。もちろん、それはわたしの思い込みなのかもしれない。そうなのだろう。そうに違いない。そう思い込もうとしても思い込めない。わたしの中の違和感は消えない。もしかしたらそれは思い込みなどではなく、あの小さな黒いモヤモヤを吸い込んだせいなのではないかと、モヤモヤする。いや、きっとそうなのだ。これはすべて、あの小さな黒いモヤモヤのせいなのだろう。
 わたしをこんな気持ちにさせる、あの小さな黒いモヤモヤは一体なんだったんだろう?わたしの胸の中で、それは間違いなく蔓延り、大きくなっているのだ。それはいずれわたしの肌を突き破り、外にまで出てくるのかもしれない。そんなことは無いのかもしれない。あれはただのホコリだったのかもしれない。そうであってほしい。
 ああ、モヤモヤする。


No.510


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