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悲劇か喜劇

 女はうなだれ、見るからに悲嘆に暮れているという様子だった。事実、女は悲嘆に暮れていた。深い深い悲嘆の底の底に女はいた。
 女を悲嘆させる理由は山のようにあった。前の晩には深爪をしたし、先週は前髪を切り過ぎた。仕事中の些細なミスで怒られたし、気をとりなおそうと食事に出たら注文したのと違う料理が出てきた。ぼんやり歩いていると車に引かれそうになったし、考え事をしながら運転していると逆に車で引きそうになった。女がプラットホームで待っていても、電車は定刻通りに来ないし、定刻通りに来ても乗る気持ちにならなかった。気づくと時計の電池が切れていて針が死んだように止まっていたし、冷蔵庫は夜通し唸り声を上げた。冷凍食品は不味いし、添加物が気になった。世界には腹を空かせて死ぬ子どもがたくさんいたし、いたるところで紛争や戦闘があり、それで罪の無い人々が殺された。女は悲嘆にくれていた。悲嘆に暮れるには充分すぎるほど充分な理由があった。
 女の恋人が女のかたわらに座り、そっと女の肩を抱いた。女は恋人の胸に頭をあずけた。明かりを消した部屋、穏やかな時間。
「大丈夫?」女の恋人は女に尋ねた。女は何も答えなかった。大丈夫なら悲嘆に暮れはしないだろう。女の恋人は小さく息をついた。
 女は涙を流さなかった。そうして、しばらくの間そのままの姿勢でいた。女の恋人も女を胸に抱き、じっとしていた。
「どうして」女が沈黙を破った。破ったとも言えないような、ほんの小さな囁き声だった。「この世界はこんなに悲しみに満ちているのかな?」
 女の恋人は深く息をついた。「この世界の幸不幸の量は均衡が取れているんだ」
 女は身を起し、恋人の顔を見る。
「幸せがあれば、その分不幸もある。誰かが幸せになれば、誰かが不幸になる。この世界はそういう仕組みになっているんだ」
「そんな世界なら」女は息をつく。「悲劇だね」
「見ようによっては」女の恋人は言った。
「そういう話はうんざり」女は言った。「クローズアップでも、そうでなくても、悲劇は悲劇じゃない?」
 女の恋人は肩をすくめた。そして黙り込んだ。なにかを深く考えている様子だ。
「なにを考えているの?」女は尋ねた。女の恋人はそれの答えずに黙り込んでいる。女は恋人が口を開くのを待った。
 どれくらいの時間待っただろう。女の恋人が口を開いた。
「君に言わなきゃならないことがあるんだ」女の恋人は言った。女は身動ぎ一つしなかった。悲嘆に暮れるべき理由を山ほど持つ彼女にとって、さらなる不幸がなにをできるだろう。浮気?愛が冷めた?どんな言葉が襲い掛かろうと、自分は大丈夫だという、そんな確信を持ちつつ、その一撃が自分を完全に打ちのめすのではないかという不安が、女の中に渦巻いていた。
「なに?」女は先を促した。
「ボクは実は悪魔なんだ」女の恋人はそう言った。
「そう」女は言った。
「君の身の回りにある不幸は全部ボクの仕業さ。悪魔のボクが君にしてあげられるのは、君を不幸にしてあげることだけだから」
 女は悪魔の顔を見た。それはそれまでと変わらない恋人の顔だった。
「これは悲劇?」悪魔は尋ねた。
「喜劇じゃないかな?」女は言った。
「愛してる」悪魔は言った。
「私もよ」女は言った。


No.529


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