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あなたに名前を付けてあげる

「あなた達は私が怖くないんですか?」男は言った。
 妻と結婚し、一緒に暮らし始めた最初の夜のことだ。部屋の明かりを消すと、男が現れた。ぼくらはただただ茫然としていた。それもそうだろう。その男は音もなく、すうっとそこに現れたのだ。怖いとかなんとかよりも、驚きと困惑が先に来た。妻も怖がる素振りなんて見せず、ただぼんやりと男を見つめている。
「全然、怖くないけど」妻は首を横に振った。「なんであなたはそんなことを心配するの?」
「なんでって!」男は苦笑いした。「私が幽霊だからですよ!」
 言われて見ると、男には足が無かったし、心なしか男の身体は透けていて、向こう側にあるテレビが見える。なるほど、と合点がいき、むしろ安心した。パズルのピースがカチッとハマったみたいに。これで家賃が相場よりもかなり安かった理由が分かった。
「幽霊に会ったのは初めてかも」と妻は言い「ぼくもだ」とぼくは言った。
「驚かないんですね!」と、当の本人である幽霊の男の方が驚いた様子である。「こんな人達初めてだ!」
「驚いた方がいい?」と、ぼくは幽霊に尋ねた。
「いえいえ、とんでもない。驚かないでいただいて結構です。むしろ驚かないで下さい」と、幽霊は慌てたように言う。幽霊であるだけで、善良な普通の人のようだ。
「あなたはどうしてほしいの?」妻は首傾げた。同感だ。いったい幽霊はどうしてもらいたいのだろう。ぼくらは驚くべきなのか、それとも驚かないべきなのか。
「嬉しいんです!私を怖がらない人に会えたことが」幽霊は飛び上がらんばかりだ。ただし足がそもそも無いものだから、飛び上がることなんて出来ないのかもしれない。あるいは、常に飛んでいる。
「みんな怖がるの?」ぼくは尋ねた。
「そりゃそうですよ。誰だって幽霊は怖いでしょ?死んでるんですよ」
「死んでるけど、人間なんでしょう?」
「そりゃそうですけど」幽霊は言葉に詰まった。
「それで、どうして嬉しいの?」妻が尋ねた。
「そうそう、そうでした」幽霊は拳で手を叩いたが音はしなかった。たぶん、その両手は現実には存在しないからだろう。「私に名前を付けて欲しいんです!」
「名前?」と、ぼくと妻は同時に言った。
「そう、名前です」幽霊は頷いた。
「なんで名前なんて欲しいの?」
「名前が無いと成仏出来ないんですよ」
「なんだか面倒臭いのね」妻は言った。
「生きてる時の名前はどうしたんです?」ぼくは尋ねた。
「なんの拍子か、死んだ時に無くしてしまったんです」幽霊は肩を落とした。「それ以来、こうやって幽霊として彷徨っていたんですが、会う人会う人怖がってしまって、誰にも話しかけることすら出来なかったんです」
「誰が付けてもいいの?」
「ええ、名前であれば」
「どうする?」ぼくは妻に尋ねた。
「いいわ、付けてあげる」そう言うと、妻は顎に手をあてて考えだした。ぼくも考えてみたが、さっぱり浮かばないから面倒になってやめた。ここは妻に任せてしまおう。
「決めた!」妻は声をあげた。そして、幽霊を手招きする。「あなたの名前は」と、言うと幽霊の耳元に口を近付けてそっと耳打ちした。
「えっ、そんな名前ですか?」
「いや?いやならいいけど、自分で付けたらいいじゃない」
「それは困りますよ」幽霊は泣き出しそうな顔になった。
「じゃあそれで我慢してね」
 幽霊は溜め息を吐いた。「仕方無いですね」そう言うと、幽霊の姿は見る見る薄くなり、消えてしまった。現れた時と同じように、音もなく。手を振る暇さえなかった。
「どんな名前を付けたの?」ぼくは妻に尋ねてみた。
「秘密よ」と言って、妻は微笑んだ。
 ぼくは肩をすくめた。


No.389


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