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雲のまにまに

 暖かい日差しの降り注ぐ日だった。しかしながら、人々はあわただしく歩いている。ぼくもまた、その人の川の一滴、急かされるように、そしてまた急かすように歩いていた。いつも何かに追われているような、追っているような気がしていた。動き続けていないと息ができないような気すらしていた。
 暖かな日差しの降り注いでいる日だった。猫の目のように情勢は変化する。世界はあわただしく回っており、ぼくもその一部だった。おそらく。
 優しい風が吹いた。とんでもなく優しい風だ。ぼくはその優しい風に頬を撫でられて、思わず空を見上げた。それに連れて、ぼくの足は止まった。ぼくが急に歩みを止めたものだから、ぼくの真後ろを歩いていた男はぼくにぶつかりそうになって、舌打ちをし、追い越して行った。もしかしたら、ぼくには聞こえないように呪詛の言葉すら吐いたかもしれない。そんな形相だった。しかたない。彼は彼で何かに急かされているんだろう。憐みはするけれど、恨んだりしない。立ち止まってみると、色々なことがどうでもよく感じられた。たとえば、急かされるように歩いていたこととか。
 ぼくは立ち止まり、空を見上げた。人々は往来のど真ん中に立ち尽くすぼくを迷惑そうに追い抜いていく。それもどうでもよかった。迷惑をかけているのは申し訳ないけれど、申し訳ないと思いつつ、どうでもいいと思っていた。青い空には、白い雲が浮かんでいる。真っ白い、綿のような雲だ。ぼくは思わず手を伸ばした。もちろん、届くと思っていたわけではない。
 ぼくが手を伸ばすと、その雲は生き物のようにそれから逃げて見せた。ひょいっと、身をかがめるみたいに。ぼくが驚いていると、雲はこちらが驚いていることを面白く思ったらしく、ぼくに近づいてきた。
「どうして捕まえようとしたの?」雲はぼくに尋ねた。
「捕まえようとなんてしていないよ」ぼくは言った。「ただ何となく、触れてみたくなっただけさ」
「それならそうと言ってくれれば良かったのに」と、雲は言った。
 ぼくは肩をすくめた。「話ができるなんて思わなかったんだよ」
「なぜ?」
「それは、雲だから」と、ぼくは答えた。「雲は話せないものだと思ってた」
 それを聞いた雲はケラケラと笑った。「ぼくも同じことを思ってた」
「どういうこと?」
「君たち人間が話せるなんて思ってなかったよ」
 ぼくはあたりを見回した。誰もが黙々と、俯きながら、どこかに向けて急かされている。
「ここの人達は、なんだかよそよそしいね」雲は言った。「誰も空なんて見やしない。急に空が無くなっちゃっても、たぶん誰も気づかないんじゃないかな」
 そうやって一言でも言葉を発する間にも、雲は形を変え、風に流され一所にとどまろうとしない。ゆらゆらと揺れて、とても心もとない。
「君は次から次へと姿を変えるけど、どうして?」と、ぼくは尋ねた。
 雲は微笑んで「そんなものじゃないかな」と答えた。「君は変な事を気にするんだね」
「決まった形が無くて、不安になったりしないの?」
「譲れないものなんて、ほんの一握りでいいのさ」そう答えると、雲は風に乗り、空の彼方へと消えて行った。


No.408


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