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シャンパンスーパーノヴァ

 目を覚ました彼は、自分の見上げているそれがどこの天井なのかを考えた。それは、大都市を見下ろす小高い丘の上の高級住宅地でも抜きん出て大きな邸宅のそれであり、その所有者は他の誰でもなく彼である。彼のような若造がそんな大邸宅のベッドに横たわっているのを何も知らない者が見たら、主のいない屋敷に空き巣に入って、うっかりそこで寝込んだ間抜けなコソドロだと思うかもしれないし、事実彼の風貌はコソドロと間違われてもしかたのないようなものだし、一見間抜けそうだが、彼こそがそこの主であり、彼をそこの主にしたのが何かと言えば、それはその邸宅の廊下に飾られるトロフィーその他諸々、ゴールドディスクやシルバーディスクたち。彼はミュージシャンであり、スターであり、大富豪であり、飲んだくれのコソドロ風の若造である。彼にその富をもたらしたのはひとえにその音楽的才能、彼の作った曲、演奏、歌は人々の心を震わせ、それに目をつけた金儲けが好きで得意な人々が上昇気流を巻き起こし、天高く舞い上がった彼はその巨万の富を得たのだった。
 いま、彼はベッドに横たわっている。部屋の中は朝の光に満たされている。彼が横たわっているのは彼が所有するベッドだ。天井は彼に違和感以外の何物も与えない。ツアーで世界を回る彼にとっては、行く先々のホテルこそが自宅と言っても過言ではないとはいえ、彼のいま横たわっているのは彼の自宅のベッドであり、その天井も彼の自宅の天井であり、彼の所有物だ。
 ひどい頭痛を覚えた彼は、目をゆっくり閉じ、それが自分を殺してくれることを緩やかに祈ったが、次に目を開けた時、窓の外のプールにデッキチェアとテレビが浮かんでいるのを見て、それが儚い願いであることを認めざるを得なかった。ただの二日酔いだ。脳腫瘍でも脳出血でもない。頭痛は彼を殺さないだろう。ただの二日酔いだ。そして、前夜のめくるめく狂宴がうっすらと思い出された。あくまでもうっすらとだ。ただただ狂ったような宴だった。スパークリングワインの爆発。哄笑。
「起きたの?」という女の声がして、彼はかたわらに女がいることに気づいた。美しいとされる顔立ちに豊かな乳房、しかしながらどれも人工物であることがひと目でわかる。
「誰だ?」彼がそう尋ねると、女は笑い声を上げた。
「月を買ってくれるって言ってた」女は言った。
「は?」
「月の土地を買い占められるって」
「馬鹿馬鹿しい」
「ひどいパーティだった。子どもの頃の誕生日パーティも全部ひっくるめても最悪のパーティ。ホントのくそったれしかいなくて。全部が全部クソだった」女はそう言った。「あんたのお友達はみんなクソ。付き合いを考えた方がいいと思う」
「友達?」
「昨日来てた奴ら」
「友達じゃない」
「じゃあ、なに?」
「俺の周りにいるのは金の亡者か頭が空っぽの奴らだけだ。そんなのと友達になんてなれない」彼はそう言うとベッドから出た。「欲しいか?」
「なにが?」
「月」
「いらない。そんなもんあってどうすんの?」
 彼は女を見た。はじめて人間を見たみたいに熱心に。まぶたと鼻に少し手を加えられているが、本来は素朴な顔つきだったのが想像された。失われてしまったもの、手に入れたもの。歌う喜び、資本主義。彼の立つその床は、彼のものだったがどこかよそよそしかった。
「俺が素寒貧でも、お前はそこにいるのか?」彼は女にそう尋ねようかと思ったがやめた。どんな答えにも幻滅するだろう。否定でも肯定でも。もし女が彼の満足するような、否定でも肯定でもない答えをすれば、彼は自分に幻滅するだろう。負けしか無い賭けはしたくなかったし、負けしか無い賭けをしたくないと思う自分自身にすでに幻滅していた。
「ひとつ頼まれてくれるか?」
「なに?」
「クローゼットに猟銃がある。とってきてくれないか?」
「それも金の亡者たちのおかげで買えたんでしょ?」
 彼は微笑み、その答えに自分が満足をしているのに気づいた。プールサイドに出て、その淵に立った。反転し、プールに満たされた水を背にし、背後にその気配を感じながら、両手を広げ、目を閉じた。丘の下の大都市から、朝の喧騒が聞こえた。高速道路は大渋滞しているだろう。いつものことだ。またうだる暑さがやってくるに違いない。街の片隅で、ギターを抱えながらうずくまる自分を、彼は想像した。陳腐な想像だ。そして、ゆっくりと目を開くと、水に倒れ込んだ。
 しぶき、人生は泡、スパークリングワインの泡のしぶき、うたかたの泡、すぐに弾けて、消えてしまう幻。言葉は水の泡に乗って、弾けて消えた。

No.266

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