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ドライブ

 免許を持たない姉に車で出かけよう、運転してくれと頼まれて驚いた。ぼくと姉は歳も離れていたこともあり、普段あまり仲がいいわけではなかったのだ。仲が悪いわけでもない。いいわけでも、悪いわけでもない、無害な同居人がぼくにとっての姉であり、姉にとってのぼくもそれと大差ないだろう。
 一瞬、姉の頼みを断ろうかと思ったが、あいにくと言っていいのか、その休日、ぼくにはなんの予定もなく、咄嗟に何かの予定をでっち上げるほどの気転もきかなかったぼくは、姉の依頼を引き受けることにした。自家用車は両親が使っていて、ぼくの所有の中古車を使わざるを得なかった。
 助手席に乗る姉はなんとも不思議な感じだった。ぼくはその中古車を買ったばかりで、まだほとんど誰も助手席には乗っていなかったし、せっかくの休日になんの予定もないことからもわかる通り甲斐性のないぼくだ、女性となると、それまでも、それからも当分、そこに腰を下ろすことはないだろうと思っていた。あるいは、姉を含めて。ガールフレンドとなんて言うまでもなくだけれど、姉とその車でどこかに出かけることも想像すらしなかったのだ。
「で、どこ、行ったらいいの?」ぼくは助手席の姉にきいた。
「どこでも」と、姉は素っ気なく答えた。
 買い物の足にでも使われるのだろうと思っていたぼくは、肩透かしを喰ったような感じだった。目的地無しに、ぼくはどうしたらいいのだ?
「どこか遠くに」と、姉は言ったきり黙り込んでしまった。ぼくはエンジンをかけ、アクセルを踏んで、車は走り始めた。
 どこでもいいというのなら、本当にどこか遠くまで行ってやろう、と決めた。なにしろ、それはぼくにとって貴重な休日でもあるのだ。確かになんの予定もないと言えばないが、それでも休日であることに変わりはない。ぼくは海に向かうことにした。姉のいるいないに関係なく、ぼくの行きたいところへドライブをすることにしたのだ。だいたいにおいて、ぼくは車を運転するのが好きだった。それはその頃、同年代の友人たちの中で、自分の車を持っているのがぼくくらいのものだったことからもわかるだろう。
 車が高速道路に乗ってからも、姉は黙ったままだった。どこへ行くのか尋ねもしない。本当にどこでもよかったのだな、とぼくは思った。姉が黙っていたので、ぼくも黙っていた。姉の沈黙は、ぼくに沈黙するように命じているようだった。それはなんの苦でもない。普段のぼくらの関係そのものだった。姉の人生、ぼくの人生。交差はしない。パラレルに続いていくだけ。横を見なければ、そこに相手がいることも忘れてしまうかもしれない。
 よく晴れた日だった。小春日和という単語を知るのはもう少し後のことで、それを知ったあとからなら、その日はそう表現されるに打ってつけの日だった。道は混んでいたけど、ぼくは全然イライラもしなかった。別にどこか決まった目的地があるわけでも、時間が決められているわけでもない。気楽なドライブなのだ。ただ車を走らせていればいい。
 結局、ぼくの選んだ目的地は海だった。季節が季節だったので、当然海水浴客なんていなくて、サーフィンでもしている人たちだろうか、海に浮かぶ人影はさすがに見ているだけのこちらに寒気を催させた。波の音だけが規則正しく静かに轟いていた。姉は水平線を見ていた。ぼくはその姉の横顔を見ていた。姉が何を考えているのか、そうしていればいつかわかるかもしれないとでもいうかのように。少なくとも、姉は別に泣いたりもしなかった。いくら横顔を見ていても、姉が何を考えているのかはちっともわからなかった。
「着いたよ」
 帰り道、姉は眠っていた。
「あ、うん」と姉は目を覚ました。「ありがと」
 しばらくして、姉は免許を取りに教習所に通い始めた。

No.365

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