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トンビ

「あ!」と気付いた時にはもう手遅れだった。それは確かに私の手の中にあったのに、まさにあっという間に引ったくられた。なにが起こったのか、まったくわからなかった。まさしく一瞬の出来事、呆然とする。何も持たない手のひらをぼんやりと見つめる。空を見上げると大きな鳥がその翼を悠々と広げ、ゆったりと旋回している。きっとあれがかっさらっていったのだ。私は憎々し気と言った目つきでそれを見上げた。
「どうなさいました?」と、女に不意に声を掛けられた。
 私の視線はさぞ訝し気だったことだろう。ここは都会のど真ん中、行きかう人々は他人のことになど興味はなく、おそらく人が倒れていても気に掛けない。そんな場所で、誰かにそんな風に声を掛けられれば、誰だって警戒するだろう。私の茫然としている隙を突いて、なにか騙そうとでもしているのではないか、と。私はそんな警戒を持ちながら女を見た。見たところ、特に変わった様子はない。どこにでもいるような、普通の女だ。美しくも、醜くもない。やけに丁寧な言葉使いの女だとだけ思った。
 女は微笑みながらこちらを見ている。その微笑みにはなにかこちらの考えていることなどお見通しだとでもいうような、そういった余裕のようなものがあった。「お困りでしょう?ほら、言ってみなさい」とでもいうような。女の視線も、まるで全てを見透かしているかのように思える。
 馬鹿げた考えだ、と私は自分の考えを即座に否定した。私は自分の考えを読ませまいと、平静を装った。私の狼狽を女に気取らせたくなかった。
「大方、何かを無くしたのでしょう?」女は言った。
 なるほど、どうやらこの女は一部始終を見ていたらしい。そうでなければ、それを知るはずはないのだ。
「何を無くしたんです?」
 女の問い掛けに、私はふと気付く。自分がその答えを持っていないことを。私は自分が何を持っていて、そしてそれを奪われたのか、知らなかった。
「それは簡単に、一言で言えるようなことじゃない」と、私は強がった。強がりである。
 なにが面白いのか、女は笑い声を上げて笑った。あるいは、女はすべて知っているのだろう。私が自分が何を持っていて、何を奪われたのかを知らないことを。しかしながら、知られていたところで私は強がるのをやめない。
「なにがおかしい?」と、私が言うと「いえ、別に」と、女はまた笑った。
「だったらなにか?あんたは何の理由もなく笑ったっていうのか?笑うからには理由があるはずだろう?」私は女を問い詰めた。
「知らないのでしょう?」女は動じる様子も見せない。口元を隠し、笑いを噛み殺している。「あなたは自分がなにを無くしたののか、知らないのよ」
 おや、と思った。言い当てられたこともさることながら、どうやらこの事態はこの女に、握られているらしい。
「教えてあげましょうか?」女は言った。「あなたが何を無くしたのかを」
 私は自分が頑なになって行っていることに気づいた。当然のことながら、私はそれを知りたかった。自分がなにを無くしたかを知りたかった。自分から失われたものは何なのかを求めていた。それが私にとって大切な何かなのであれば、その失われた何かが何なのかがわかれば、あるいは、何か他のもので埋め合わせをすることができるかもしれない。できなかったとしても、それを知りたかった。ただ単純に知りたかった。
 しかしながら、私はそれを女に乞いたくはなかった。他のどんな人間にも尋ねたくなかった。自分の失われたなにかは、もしかしたら私の核心部分なのではあるまいか?私の醜さや、恥ずべきなにか、見ずに済ませようとしていたものこそが、それなのではあるまいか。そんな恐れを、私は抱いた。女の口からそれが出るのが怖かった。
「消えろ」私は女に言った。「どこかに失せろ。私はお前を信じない」
 女は私の悪態にも微笑みを崩さない。
「あなた、知らないのでしょう?」女は言った。「教えて差し上げますわ。なんの見返りも求めません。ただ、あなたが自分が持っていたのが何なのかを知らないことをお認めになれば」
 私は女を睨みつけた。女はそれでも微笑みを崩さない。私は踵を返し、その場をあとにした。決して振り向かず、足早に歩いていたのが気づくと駆け足になっていた。私は逃げていたのだ。何から?わからない。とにかく、私は逃げていた。

No.383

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