見出し画像

彼女の抜け殻

 彼女が抜け殻になった。抜け殻の彼女はずっと横になっている。眠っているわけではない。一応ちゃんと会話ができて、意志の疎通も可能ではある。ただ、そのレスポンスは非常に遅い。
「ごはん、できたよ」と、ぼくが声を掛ける。彼女がなにかを口にするのを長いこと見ていなかったぼくは、彼女の体調が心配で、抜け殻になる前に彼女がほめてくれたグラタンを作ったのだ。
 彼女は返事をしない。グラタンの温かい香りが立ち込め、ぼくの方が空腹になる。
「ここに置いとくね」そう言って、その場を立ち去る。そこで食べるまで見張られているのも気分のいいものではないだろうし、ぼくとしても無理やり食べさせようとしているような心持になってそれはそれで気持ちのいいものではないからだ。
 しばらくして戻ると、グラタンはそのまま、熱量保存の法則に従って、すっかり冷めてしまっているだけだ。
「おなか」と、彼女は虫の鳴くような声で言う。「すいてない」
 それはぼくがグラタンを置いたときに掛けた声に対する返答だ。たぶん。
 ぼくは彼女のお腹を確かめる。抜け殻になる前の彼女であれば嫌がっただろうけれど、確認せずにはいられない。このままでは餓死してしまうのではないかと心配なのだ。
 シャツをまくり上げ、すべすべのお腹をあらわにする。手触りからして、中が空洞なのがわかる。それでも中を確かめると、案の定、彼女のお腹は空っぽだった。なにしろ彼女は抜け殻なのだ。その中身は失われてしまったのだ。
「空っぽだよ」と、ぼくは彼女に言う。「お腹」
 彼女はなにも言わない。あるいは、しばらくたってからなにか返事をするのかもしれないし、なにも返事をしないつもりなのかもしれない。どちらなのかはわからない。それは別に彼女が抜け殻だからではなくて、そういうものだから。他人がなにを考えているかはわからないのだ。どんなに心配していたとしても。
 彼女がどうして抜け殻になってしまったのか、ぼくにはわからない。何度か彼女自身にそれを尋ねたけれど、要領を得なかった。抜け殻の彼女が答えられるようなものではないのかもしれない。もしかしたら、それは失われてしまった中身が知っているのかもしれない。ありそうなことだ。抜け殻になる前の彼女は、色々なことを知っていたし、道理もちゃんとわかっていた。
 もしも立場が逆で、ぼくが抜け殻になったとしたら、彼女はどうにかうまいことやったのではないかと思う。あるいは、ぼくの中身をちゃんと見つけ出して、抜け殻のぼくに収めるのではないだろうか。そう思うと、ひどく申し訳ないような気がしてくる。自分の不甲斐なさが不甲斐ない。不甲斐なさが不甲斐ないなんてつまらないことをいうような、不甲斐ないのがぼくであり、そんなぼくでは抜け殻の彼女に対する最善の対処法も思いつかないのだ。
 ぼくにできることと言えば、彼女の中身が戻って来るのを、抜け殻の彼女のかたわらで一緒に待つことだけなのだ。
「帰って来るかな」と、ぼくは抜け殻の彼女に話しかける。彼女はなにも答えない。
「帰って来るさ」と、ぼくは抜け殻の彼女に話しかける。彼女はなにも答えない。
 そうして、ただ待っている。彼女が戻って来るのを。


No.584


兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?