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二度死んだ父の名前

 ぼくは父と打ち解けたことがなかった。それはぼくがまだ幼いころからそうだった。肩車をされたようなこともなければ、手を繋いで歩いたようなこともない。それなりに大人になってから、街中で父親に肩車された子どもを見て、それに嫉妬するようなことは無いが、自分がそうされなかったことは意識されられる。父はどこかいつもよそよそしく、ぼくとの間に壁のようなものを築いていた。少なくとも、ぼくはそう感じていた。そして、それが解消されることは無い。断言。なぜなら、父はいままさに死のうとしていたからだ。
「お父さんが倒れたの」と、母から電話がかかってきたのは残業を終えて帰宅した時だった。母の口調に切迫したものがなかったので、どこかで転びでもしたのかと思った。「脳の血管が破れてしまって、もう意識を戻さないかもしれないって」そして、母は嗚咽を漏らし始めた。努めて平静を装っていたのかもしれないし、もしかしたら状況をそうして口にすることで、初めてその状況が現実味を帯びてきたのかもしれない。ぼくにしてもそうだ。まったく現実味がなかった。父が死ぬかもしれない?そんなバカな。
 車を飛ばしている間にもそれが現実味を帯びることは無かった。なにかの間違いか、たちの悪いイタズラのように思えた。誤診ではないか。あるいは、これは夢なのではないか。そして、病室に入り、ベッドに横たえられた父を見て、それが現実なのだと、ぼくは観念した。それから逃げることはできない。死。それが現実だった。
「これ」と、待合室で母がカードを差し出した。父の臓器提供意思表示カードだった。脳死の場合にはすべての臓器の提供を希望するようになっている。ぼくは息をついた。そして、なにかを考えようとしたが、考えるべきことは無かった。つまり、そういうことなのだ。あとはその考えがなじむのを待つだけだ。ぼくと母はその待合室でそれを待っていた。自分の体に、それが沁み込んでいくのを。
 明け方になって、母がゆっくりと口を開いた。
「お父さんには」と母は話し始めた。ぼくの初めて聞く話だった。
 父には兄がいたのだそうだ。ぼくはそれを知らなかった。ずっと、父は一人っ子なのだと思っていた。それもそのはず、その父の兄は父の生まれる前に死んでしまってたのだ。
 交通事故だ。その子、父の兄にあたる、父の生まれる前に死んでしまった子は、父の父、ぼくにとって祖父にあたる人の目の前で車にはねられて死んでしまった。祖父も、身重だった祖母も嘆き悲しんだ。それはそうだろう。言うまでもない。祖父はいつも自分を責めたそうだ。その死を避ける方法があったのではないか、自分の不注意がその子を殺したのではないかと。
「そして、お父さんが生まれた」
 我が子を亡くした夫婦は、その生まれてきた子に死んだ子どもの名前を付けた。生まれてきた子、つまり父だ。祖父母がどういう気持ちだったのかはわからない。自分たちの子どもを他の名前で呼ぶことが考えられなかったのかもしれないし、もしかしたらもう一度やり直したかったのかもしれない。死んだ子どもを、もう一度。
 祖父母はその死んだ子どもについては父にふせていた。しかしながら、その写真を納めたアルバムを処分するのは忍びなかったのだろう。倉庫の奥の方にしまい込んでいたのだが、ある日、父はそれを見つけてしまったのだ。自分ではない子どもの姿に書き込まれた自分の名前。父はアルバムを祖母に見せ、尋ねた。
「これは誰?」
 そうして、父は自分に兄がいて、その死んだ兄の名前が自分の名前であることを知ったのだった。
「お父さん、よく言っていた。『自分が自分じゃなくて、ただの代用品みたいな気がする』って」
 あるいは、父の人生は代用品としての人生だったのかもしれない。父の自己認識としては。
 父の名前、死んだ父の兄の名前、それは父が死に、二度目の死を迎える。けれど、父は誰にも譲れない自分の死を死ぬのだ。祖父は、一度たりとも父と手を繋がなかったという。


No.512


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