かりそめ

 目を覚ました彼は驚いた。自分を見下ろしている天井が、見慣れたものではない。あるいは、そういった感覚に陥ったことのある人もいるかもしれない。旅先のホテルで目覚めた時など、見慣れぬ天井に一瞬軽い混乱に陥るようなこともあるだろう。彼が驚いたのは、彼は目覚めて天井を見て、どこか旅に出て、ホテルで朝を迎えた時のような感じを覚えたのだが、それは見慣れたはずの、自分の家の天井であったからだ。
 彼はゆっくりと身を起こした。隣には妻が眠っているはずで、彼女を起こしては悪いと思ったからだ。隣には確かに妻が眠っていた。それは間違いなく彼の妻だった。永遠の愛と献身を誓った妻である。天井であれば、旅先の天井と自宅の天井を見間違うこともあるかもしれない。しかし、長年連れ添った妻となれば、どこかよその女と間違えるはずがない。それは間違いなく彼の妻だった。しかしながら、驚いたことに彼はそれが自分の妻であるとは思えなかった。鼻も、耳も、閉じられた目も、全てが妻のものである。その髪も、肩も、寝息もまた、彼の妻のものである。だが、彼にはそれが初めて会う女のように感じられたのだ。
 彼はその女を起こさないようにそっと寝床を抜け出した。そして、辺りを見回してみる。それは彼の寝室のようではあったが、まったく自分のものである感じがしなかった。いかなる区分においても、それらは彼の所有であると認められるであろう。それの所有者は彼であると、どこかの役所の書類が保証し、証明してくれるはずだ。あるいは、多くの証人が出て来るに違いない。彼は長年そこに住んでおり、それを所有するためにローンを払い、近隣の人も、不動産屋も、それを認めるだろう。しかし、彼自身はそれを認められなかったのだ。枕元に置かれた読みかけの文庫本も、棚の上の時計も、なにもかも、そのどれもが、初めて見る、他人の部屋の物のようであった。
 彼は前夜のことを思い出そうとした。もしかしたら、そこに何か原因があるのかもしれない。深酒でもしただろうか。いや、そんなことはない。どこかで頭をぶつけでもしたか。痛むところは無い。しかし、どんなに思い出してみても、思い当たることがなかった。前夜の彼もいつもの彼と変わらぬ生活を送っていただけだった。特別なことなど一つもない。いつもと同じように床に就いたのだった。そこは彼の家であり、彼の妻がいて、彼の人生があった。
 彼はクローゼットに行き、服を着た。そこにある服は彼のものであるはずだが、やはり他人のもののように彼には思われた。どれを着たらいいのかわからず、闇雲に手を突っ込んで掴んだものを着た。寝室を出た。その廊下もまた、初めて見たもののようだった。子供部屋のドアが見えたが、中を覗くことはしなかった。中では愛娘が寝息を立てていることだろうが、どうせそれは自分のものとは思われないだろうと、彼は思ったからだった。事実、愛娘の寝顔を見ずにそこを去ろうとも、彼はまったく悲しくなかった。
 足音を忍ばせ、彼は玄関から外へ出た。着ている服も、履いている靴も、自分の物という感じがしないわけで、彼にとってそれがとても気持ちの悪いことなのだが、贅沢は言えない。裸で外に出るわけにはいかないのだから。自分の服と靴が手に入ったら、いま身に付けているものは返そう、と彼は思った。言うまでもないが、それらは彼の所有するものである。しかしながら、彼にその実感を与えないものである。
 仕事のことをぼんやり考えた。それもまた、彼の仕事のようには思えなかった。どうでもいいことのように彼には思われた。
 なにもかもが、かりそめのもののように、彼には思われた。かりそめの服、かりそめの靴、かりそめの家、かりそめの妻、かりそめの娘、かりそめの仕事。かりそめの人生。自分は不幸ではないが、幸福でもなかったのだと、彼には感じられた。そして、これから幸福になるわけでもなく、あるいは不幸になるのだと、そう彼は感じた。かりそめの不幸を生きるのなら、本物の不幸の方が少しは幸せなのではあるまいかと、彼は思い、その矛盾しているのに気付き、少し笑った。
 そして、振り返りもせずに彼は歩み出した。自分のものと思えるであろう、と彼の考える人生に向けて。

No.360

兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?