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空も飛べるはず

 目覚まし時計が鳴らなかったのだろうか?いや、鳴った気もする。それを無意識に止めたのだろうか。あり得ることだ。いや、一度目覚め、もう一度眠りに落ちたのか。そんな気もする。もう少しだけ横になっていようと思った気もする。あそこで思い切って起き上がればよかったのだろうか?たぶん、そうだろう。しかしながら、それができなかったのだ。それができないほどくたびれていた。仕方がない。いや、それで済むのならいいが、そうはいかない。
 もちろん、その瞬間にはこんなのんきなことは考えていられなかった。これは振り返ってこそ考えられることだ。
 目が覚めた。完全に遅刻の時刻だった。息を呑んだ。
 そこからの意識は無い。もう無意識状態でベッドから飛び出し、部屋から飛び出した。顔を洗ったか、歯を磨いたか、どうやって着替えたのかも定かではない。もちろん、それは朝のルーティンだから、それこそ何も考えなくてもできることではあるが、完全に記憶が欠落している。ぼくは慌てふためいていた。完全に遅刻だが、それでも焦らずにはいられない。そこで居直るほどの度胸はあいにく持ち合わせていないのだ。遅刻をしたところでどうということはないということは、頭ではわかっている。それで命を取られるということはないだろうし、メロスのように親友の命がかかっているわけでもない。せいぜい上司の厭味ったらしい叱責を浴びるのが関の山で、それでおしまい。ぶん殴られたり、蹴飛ばされたりもないだろうし、その一度の遅刻でクビになるようなことも無いだろうし、周囲の同僚たちもそれなりに同情してくれるのではないかと思う。それでも、ぼくは慌てふためく。情けないくらいに。
 通りに出て、ぼくは懸命に走った。普段なら「ああ、早く帰りたいな、早く帰りたいな」と思いながら歩く道だが、この時ばかりは懸命に走った。頭の中はどんな言い訳をするかということばかり。電車が遅れた?すぐバレる。上司も同じ電車を使うからだ。バスは?バスが遅れたというのなら、上司にはバレない。「タクシーを使え」上司なら言いそうだ。「そういうことも考えて早めに行動しろ」言いそうだ。「いつも言っているが、君はなにごともそうやって遅いんだよ。後回しにするから、トラブルを回避できない」云々。言いそうだ。うんざりだ。お年寄りを助けてて?ぼくがそんな人助けをするわけがないと、すぐに見破られる嘘だ。頭の中をぐるぐる回るのはそんなことばかり。答えは出ない。どうすればいいかわからないまま、走り、走って、走る。
 肺が焼けそうだ。気管が熱い。足の筋肉が悲鳴を上げる。汗が背中ににじんできている。止まりたい。ダメだ。走れ。ダメだ。止まらせてくれ。走れ。走れ。走れ。
 こんなに走ったのはいつぶりだろう?学生のころ以来だろうか。部活で散々走らされた。あれには何の意味があったのか。意味なんてなかったんだろうな。本当に、イヤでイヤで仕方なかった。走るのがイヤだった。走るのがイヤだった?いつから走るのがイヤになったんだろう。もっと小さいころ、子どものころは、訳もなく走っていなかったっけ?ただ、意味も、理由も、そんなもの無しに、ぼくは走っていたはずだ。走ること自体を求めてた。歩きたくなれば歩いたし、また走りたくなれば駆け出した。ぼくは自由だった。 
 登校する途中なのだろうか、子どもたちがぼくを走って追い抜いて行った。両手を広げ、飛行機みたいにしている。ぼくは立ち止まり、荒い息をしながらそれを見送った。笑いが込み上げてきた。遅刻?馬鹿馬鹿しい。上司の叱責?クソくらえだ。どうでもいいことばかりじゃないか?どうでもいいことばかりだ。
 ぼくは提げていたカバンを放り捨てると、子どもたちのやっていたように両手を広げた。そして、息を整え、また走り出した。ぐんぐん加速する。風を受け走る。なんて気持ちがいいんだろう。走るのは、こんなに気持ちがいいことなのだ。そう思った瞬間、ぼくの広げた両手が風を捉え、体がふわりと宙に浮いた。飛行機みたいに、空を飛んだのだ。忘れていた感覚。忘れていたのだ。そうだった。ぼくは空が飛べたのだ。
 一瞬、「これなら会社までひとっ飛びだ」と思ったが、すぐにやめた。


No.441


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