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ある夏の朝

 夏休みのある朝のこと。
 冷蔵庫を開けると、牛乳が切れていたので仕方なく買いに出ることにした。
 サンダルをつっかけ、外に出る。朝から日差しは強いが、風は爽やかだった。夏の朝らしい夏の朝。風の心地よさに誘われて、少し遠回りして行くことにした。あくびしながら犬の散歩をする人がいた。ネクタイをしめて出勤しようという人がいた。ジョギングをする人がいて、ウォーキングをする夫婦らしき人たちがいた。朝の景色。世界は平和である。少なくとも、このあたりは。
 お店に入ろうとしたとき、同級生の男の子と出くわした。同じクラスだけど、一度も話したことのない子だ。わたしに限らず、たぶん誰とも話したことがないのではないだろうか。いつもぼんやりしている子。授業中も、休み時間も、放課後も、つねにぼんやりしている。誰かと話したところを見たことがない。変なヤツ、が彼のポジション。そこに収めることで、変な納得をされている存在。
 彼はバケツと小さなあみを持っていた。
「カニ」と、彼はわたしを見て言った。
「へ?」
「カニ取りに行くんだ」
 高校生にもなって?と口をついて出かかったがどうにか押し留めた。
「行く?」と彼はわたしに尋ねた。「わたしに」だと思うし、「尋ねた」のだと思う。
「え?」
「図書館の裏の川」
 すぐそこだ。
「うん」わたしは答えた。別に、カニにも、彼にも興味は無かったのだけれど、なんとなくそれも悪くないような気がした。
 図書館の裏の川は、昔の人が運河として切り拓いたもので、それが交通手段として使われていた頃には川の両岸にはそこから積み下ろしされる商品を収める蔵が立ち並んでいたとかいう。いまでは見る影もなく、立ち並ぶのは戸建ての住宅で、かろうじて往時を思わせるのは川面の地面に近い点だけだろう。なんか、そんなことを小学校の頃に習ったような気がする。
 川に面した岩場にはカニがわんさかいた。川に暮らす小さなカニだ。見下ろすとこちらに警戒して身をこわばらせるのがわかる。彼は糸に縛り付けたスルメイカを岩と岩の間にそっと下ろす。そしてしばらく待つ。その眼差しは真剣そのものだ。本物のハンターの目つき。そして、それを引き上げるとカニがぶら下がっていて、彼はそれをあみでさっと捕らえるのだ。
 そうやって、次から次へとカニを捕まえていく。それはとても簡単な作業のように見えた。
「わたしにもやらせてよ」と、わたしは言った。
 彼はなにも言わずに持っていた仕掛けをわたしに差し出した。わたしはそれを受け取ると、早速彼のやっていたのを真似してやってみた。
 ところがちっとも上手くいかない。カニがスルメイカを掴んだと思って持ち上げると、パッと離して逃げてしまう。
「難しい」わたしは言って、彼に仕掛けを返した。
「うん」彼は受け取ると、帰り支度を始めた。
「帰るの?」
「うん」
「カニは?」
 彼はカニでいっぱいになったバケツを持ち上げると、岩場の上でそっとそれを傾けた。カニたちがガラガラと落ちてくる。
「逃がすの?」
「うん」
「なんで捕まえたの?」
 彼は肩をすくめただけだった。そして、彼と出くわした店の前まで一緒に歩いて、そこで別れた。
「バイバイ」
「うん」
 わたしは牛乳を買って帰った。夏の一日がはじまろうとしていた。

No.608

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