見出し画像

長いお別れ

 その年末、アルバイト先の本屋が閉店することになった。駅前という絶好の立地にもかかわらず、いつも閑散としているという残念な本屋だ。誰も本を買わないか、すぐ近くのカルチュアコンビニエンスクラブで買うのに違いない。あるいは、誰の目にもその本屋は見えていなかったのかもしれない。確かに小さな本屋で、目を凝らしていないと気づかないかもしれない。
 わたしがそこでアルバイトをはじめたのは大学一年の秋のことだった。本当は学校生活が落ち着いてきた夏休み前くらいには始めようと思っていたのだけれど、なぜかどのアルバイトも面接で落とされた。ファストフードも、ファミレスも、コンビニも、ガソリンスタンドも。誰の目から見てもわかるほど、わたしは労働に向いていない。それは自分自身でも自覚していることだ。遅刻は多いし(どの面接も遅刻してしまった)、忘れ物も多い(半数以上の面接に履歴書を持参しなかった)、ずぼらなくせに、変な部分に神経質で、小心者のくせに反抗的なのがわたしだ。やる気が無いわけでは決してない。それでも、上手く行かないのだから仕方がない。
 正直なところ、仕送りはしてもらっていたし、つつましやかな生活を送ればそれで充分な額だったし、友人がひとりもいないわたしには、自分の部屋と学校の往復以外にすることはなく、テーマパークに遊びに行ったり、急に海に行ってみたり、そういう、出費の可能性は限りなくゼロに近く、つつましやかな生活以外の生活スタイルを選ぶこともできなかったわけで、わざわざアルバイトをする必要も無かったのだ。面接で落ち続けても、アルバイトをしようとしたのは完全に意地だった。
 その本屋は、わたしの部屋の最寄り駅にあった。階段から降りて来て、花屋の向かいだ。わたしがそこの存在に気づけたのは、わたしが本屋とみたらとにかく入ってみる性質の人間だったからだ。畳店を書店に見間違えるのがわたしだ。本を読むくらいしか、わたしには趣味が無い。趣味と言うよりも、友人と呼んだ方がいいのかもしれない。本の良いのは、書いてあることをこちらがどう読んでもいいことだ。人間だとそうはいかない。
 そんな感じだから、上京して、そこに住み始めた時から、その本屋の存在は知っていたし、何度も入ってもいた。そこは老夫婦ふたりで経営している本屋らしく、おじいさんかおばあさんのどちらかがレジにいた。狭い店内には音楽が掛けられているわけでもなく、いつも静まりかえっていた。品ぞろえに特徴は無くて、なにか信念を持って本屋をやっているわけではなさそうだ。とりあえず新刊を並べ、次の新刊が来たら取り換えるだけなのだろう。
 何度か文庫本を買いもした。おじいさんも、おばあさんも、どちらも愛想がいいわけでもなく。淡々とバーコードを読み取り、そしてお金のやり取りをした。
「カバーしますか?」
「あ、いいです」
 ある日、その店先に「アルバイト募集」の貼り紙があるのに気が付いた。わたしはレジの中にいるおばあさんに恐る恐る声をかけた。
「あのー」
「いらっしゃいませ」と、おばあさん。
「えーと」と、わたし。
「はい」と、おばあさん。
「えーとですね」と、わたし。「えーと」
「はい?」
 わたしは一瞬逃げだしそうになった。「あの、アルバイト」
「え?」
「募集してます?」
「あー」と、おばあさん。「貼り紙」
「はい、貼り紙」
 そして、わたしはそこでアルバイトをすることになった。面接も、履歴書もいらなかった。もしかしたら、やる気すら不要だったかもしれない。
「おじいさんが入院してしまってね」と、おばあさんは話してくれた。つまり、わたしはおじいさんが戻って来るまでの繋ぎなのだ。「それでも良ければ」
 わたしに異存は無かった。とりあえず、アルバイトができる。それだけで満足だった。
 わたしに与えられた仕事は、おばあさんがいない時の店番だ。それはおじいさんの病院へのお見舞いの時だけだった。店の奥が住居になっていて、おばあさんがそこから離れるのはその時だけだったからだ。そして、わたしには付けられる都合が山ほどあった。おばあさんが病院に行きたいとなれば、わたしはそのレジに入った。それだけが仕事のようなものだった。なにしろ、お客さんは来ない。そこに座り、店の前を通り過ぎる人を見ているのが仕事内容のほぼすべてだった。
 おばあさんが病院から戻って来ると、そこでわたしはお役御免。もしかしたら、わたしとおばあさんの心の交流なんかに期待されたかもしれないが、そういうのは一切なし。おばあさんはドライだった。
「あ、おかえりなさい」
「ただいま。じゃあ、もう上がっちゃっていいから」と、おばあさんはお店のエプロンをつける。
「お疲れ様です」
「はい、お疲れ様」
 給料は手渡しだった。封筒に、お金が入っている。ほとんど働いていないから、雀の涙みたいな額だったけど、なにもせずに座っていただけだから、それをもらうのも心苦しいくらいだった。と言っても、それをもらったのは二回だけだ。わたしがアルバイトをはじめて二月で、完全にお役御免になった。おじいさんが帰って来たのではない。おじいさんが帰らぬ人になったのだ。
 年末のこと、おばあさんがいつものように病院に行き、帰ってくると、「店を閉めることにしてね」と言ったのだ。
「え?」と、わたしは言葉を失った。
「死んじゃったのよ、あの人」と、おばあさん。わたしには一瞬あの人が誰なのかわからなかった。「おじいさん、死んじゃったの」おばあさんは相変わらずドライだった。
「え?」と、わたしはさらに言葉を失った。
 というわけで、その本屋は閉店した。閉じられたシャッターは二度と開くことはなく、おばあさんがどうなったのか、わたしにはわからない。
「さようなら」
「さようなら」
 そう言葉を交わしたのが最後だけれど、特に感慨も無い。


No.399


兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで


201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?