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悲劇喜劇

 彼の仕事は紙を丸めてゴミ箱に投げることではない。確かに、一心不乱にその作業を行っているかのように見える。机の上に紙を置き、それに何か書きつけ、しばらくするとそれをぐじゃぐじゃと丸め、少し離れたところに置かれたゴミ箱に放り投げる。ここまで百発百中、一度たりともそれを仕損じることがない。どうやらそれは熟練の技術とでも呼んでいいものなのだろう。これまでに何千何万回とくりかえされて作り上げてきた技術。彼はきっと紙を丸めてゴミ箱に投げる職人なのだ。しかも腕のいい。
 しかしながら、それはそう見えるだけのことだ。そもそも紙を丸めてゴミ箱に放り投げる職人など聞いたことがない。寡聞にしてなどと言うまでもないだろう。
 彼は劇作家だ。丸められ放り投げられた紙は書き損じの原稿である。机の上にある紙はことごとく丸められて放り投げられているように思える。となると、いっこうに脚本は書けていないわけだが、それでもやはり彼は劇作家である。劇作家であり、書くことが仕事でなければ、彼はそうしてひねり出すように何かを書いたりはしなかっただろうし、そうなれば無数の書き損じも生まれはしなかっただろう。彼が書けないということは、彼の劇作家であるということの証左である。
「不振だ」
「書けませんか?」
「うむ」と彼は頷いた。「ちっとも書けん」
「ふむ」と原稿を取りに来た人は言った。稽古場では役者たちが脚本の到着をいまいまかと待っている。彼らの姿を見ると、いまかいまかと待つのが仕事に見えるし、あるいはそういう部分もあるにしても、本質は演じることである。脚本が無ければ演じられない。
「どうです?先生」と、原稿を取りに来た人は言った。
「なんだね?」
「いつも通り、悲劇を書かれましては?」
「ふむ」と、彼は顎に手を当て言った。「いや、わたしは新たな境地へ踏み出したいのだ。というか、もう悲劇は飽きた。もっと、人の幸せになる話を書きたい。家族の暖かさ、友人たちとの親密な空気、恋人との愛」
「ああ、そして彼らを悲劇が見まい、その築き上げてきた美しいものが瓦解していく」
「違う!それらがじきに破綻するものではなく、それらを得ることで終わるような物語を書きたいんだ。最後にみんな死ぬような話はもううんざりだ。なぜそんなことになる?そんなのうんざりだ。わたしは人生を肯定したい。世界を肯定したいんだ。書きたいんだよ!幸福な終わりの来る話を!」
「ですが、先生」
「なんだね?」
「観客はみんな先生のそんな話を待っているんですよ。みんな死んじゃうような話を」
 劇作家は目を丸くした。「冗談だろう?」
「本当です」
「嘘だ」
「とにかく、書いてください。そうしないと、ぼくがいつまで経っても帰れません。あまりに遅くなれば、ぼくは役者連中にぼこぼこにされるでしょう。もしかしたら、十字架にはりつけにされるかもしれない。そんな受難劇みたいの嫌です。それこそ悲劇だ」そういうと、懐からナイフを取り出し、彼に向かって突きつけた。「さあ、早く書いてください!」
「よせ!」
「早く!」
「話せばわかる!」
「問答無用!」
「そのナイフを寄越せ!」
「いやです!」
 と、二人は揉み合い始めた。代わる代わる上になり、下になりしている内に、原稿を待っていた人の胸にナイフが刺さってしまった。血が吹き出し、真っ赤な水溜まりができる。原稿を取りに来た人は自分の胸からナイフを抜き取り、さらに血が溢れ、よろよろとどうにか身を起し、唖然としている劇作家の彼の胸にそのナイフを突き立てる。最後の力を振り絞って。そうして倒れ込み「早く、かい」とだけ言葉にし、息絶える。
「ああ、なんてことだ」と、劇作家は息も絶え絶え呟く。ガクリと膝を突き、胸から溢れる血をその両手で受け止め、真っ赤に染まった自分の左右の手をかわるがわる見る。その手は震えている。「これは悲劇などではない。喜劇だ」そして前のめりに倒れ込み、息絶える。
 万雷の拍手が降り注ぐ。息を飲んでふたりを見ていた観客は歓声を上げ、拍手しながら立ち上がる。それはいつまでもいつまでも続き、やむことが想像すらできない。
 そして、ふたりは死んでいる。

No.354


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