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とても澄んでいて、すごくきれいなもの

 とても澄んでいて、すごくきれいなものを拾った。
 冬の、雲ひとつない天気のいい日だった。
 わたしは地面に這いつくばっていた。波の音が聞こえる。海の近くの護岸を歩いていたら滑って転んだ。これほど派手に転ぶのは子どものころ以来だと思う。
 昔は、もっと転んでいた。膝を擦りむいたり、手を擦りむいたり。
 大人になって久しぶりに転ぶと地面の固さに驚く。もちろん、そこが護岸で、コンクリートで固められているからというのはあるけれど、地面はとても大きくて、わたしの力なんかではびくともしないのだ。そんなことはすっかり忘れていた。地球はなんて大きいんだろう、そんなことをぼんやり考えながら、そのまま地面に這いつくばっていた。海がキラキラ光っていた。世界が真っ青になったような気がした。とてもきれいな青だ。
 コンクリートのそれは冬の空気にさらされて冷え切っている。それに我慢できなくなって、立ち上がろうとしたときに、なにか手に触れるものがあるのに気づいた。わたしはそれをそっとつかみ、立ち上がって手の中のそれを確かめた。
 ところが、わたしの手の中にはなにも無いように見えるのだ。わたしは混乱した。わたしの指は間違いなくなにかに触れている感覚があるのだ。それは、なにかをつまんでいる。それなのに、見るとそこにはなにもない。
 わたしはその感覚を信じ、それを陽の光にかざしてみた。すると、ほんの少しだけ光を屈折させ、わたしの指の中にあるそれの姿が垣間見えた。ほんの少しだけ、本当に、薄っすらと、用心深く注意しないとわからないくらい。
 おそらく、それを触れていなければ、そこにそれがあることになんて気が付かなかっただろう。目で見るには、それはあまりにも透明だった。透明で、澄んでいて、とてもきれいだった。
 その透明さは、惚れ惚れするほどで、わたしはそれをうっとりと眺めていたくらいだ。そして、あたりを見渡した。見ている人はいない。それを確認して、わたしはそれをポケットに入れた。
「どうせすぐ」と、そのとても澄んでいて、すごくきれいなものを見た兄は言った。「汚れてしまうよ」
「なぜ?」と、わたしは憤慨していった。
「お前の手は」と、兄は息をつきながら言った。「汚れているから」
「そんなことない」わたしは言った。「よく洗ったから、大丈夫」
 兄は肩をすくめた。「汚れる前にもとの場所に戻すことをおすすめするけどね」
 わたしは兄の背中に舌を出し、話のわからない大馬鹿者だと憤りながらその場をあとにした。そして、ポケットからとても澄んで、すごくきれいなものを取り出し、陽の光にかざしてみる。大丈夫だ。傷ひとつ無いし、一点の曇りもない。それはまだとても澄んでいて、すごくきれいなもののままだ。
 それを確かめ満足したわたしは、またそれをポケットにしまおうとした。そこで手が滑って、それを落としてしまったのだ。
 それは音もなく落ちた。
 まず、落としたせいでそれに傷がついてしまったのではないかと思った。確かめなければと落ちあたりを探したが見つからない。手探りしても、指に触れない。思ったよりも遠くに転がってしまったのかと捜索範囲を広げても見つからない。やがて日が陰り、夜になった。
「どうしたの?」兄がやって来た。
「なんでもない」わたしは泣きたくなるのをこらえて言った。
「帰ろう」
「いやだ」
「もう見つからないよ」兄は這いつくばりながらとても澄んでいて、すごくきれいなものを探すわたしの横にしゃがんで言った。「見つかったのが奇跡だったんだ。お前は幸せだよ。あれを見つけられたんだもの」
 そう言われて、わたしは泣いた。ボロボロ泣いた。そして、兄に手を引かれながら家に帰った。
 今度、とても澄んでいて、すごくきれいなものを見つけたら、絶対に汚してやろうと思っている。傷をつけてやろうと思っている。そうすれば、もう見つけられなくなることなんて無いだろうから。



No.787

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