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度胸試し

 やたらと店員の視線が気になってしまう彼は、心の中で自分の臆病さを罵り叱りつけ、自分を鼓舞しようとした。棚の影から、店員の様子を窺う。視線がぶつかる。怪しまれているような気がする。棚の影に隠れる。何気ない風を装い、店内を、品物を見て回るように歩いて回る。時折手に取り、検分してみる。そしてまた、店員の様子を窺う。レジで他の客の対応をしている。その合間にもこちらを見ているようyな気がする。考えすぎさ。彼は自分に言い聞かせる。
「ほら」と友人が学校で見せてくれた。「盗ったんだ」そう言って、ニヤリと笑ったその顔は、なんだか映画のヒーローのように彼には映った。アンチヒーローである。その、手柄の品を友人たちに回してみせる。
「楽勝さ」とその友人は言った。「あいつら、全然気づかないでやんの」
 周りの友人たちは非難などしなかった。なんとも曖昧な表情でその友人を見ていた。中途半端な笑顔を浮かべていた。自分もそんな顔をしているのだろう、と彼は思った。ここには一つの線が引かれているのだ。こちら側と、あちら側。その友人は、間違いなく何かの線を飛び越えて見せた。そして、自分はこちら側で、ぎこちない笑みを浮かべている。
「ありがとうございました」と店員が客を送り出した。店内には他にも客がいる。店員だけではない。他の客の目も気にしなければならない。こうなると、誰も彼も自分のことを見張っているように思えてきた。そして、それはまだ行われる前から彼を責め立てていた。
「お前は悪人だ。きっと警察に捕まって、刑務所行きだ」
 望むところであるはずだった。その一線を飛び越えてやるのだ。向こう側から見る世界を、彼は知りたかった。向こう側から、見下ろしてやるのだ。そのくせ、彼は躊躇していた。善悪の判断が彼を引き止めていたのではないだろう。少なくとも彼は自分自身をそう分析していた。自分を躊躇わすものは、自分の中の怯懦に過ぎない。そんな臆病な自分に、彼はつくづくうんざりした。それでも、踏み出せないでいる。そうしてまた、自分の臆病さ加減にを突き付けられるのだ。
 少し店内が混んできた。夕暮れどきで帰宅する人が街に出てきたのだろう。それでも、一瞬の空隙に彼は滑り込んだ。それは自分でも驚くくらい自然だっただろう。後で振り返っても、それが自分の行いとは思えないほどだった。さっ、と掴んだものをポケットに入れた。そして、ひやかしに飽きたとでもいった風情で店を出た。後頭部がチリチリと焼けるようだった。店員が追ってくるのではないか。肩を急に掴まれるのではあるまいか。振り返りたい欲求に駆られるが、振り返った時に目に入るもの、追いかけて来る店員の姿や、それから展開されることを考えると、それは出来なかった。
 急に彼は駆け出した。商店街は買い物客で混み合っていた。それを掻き分けるように走った。どこへ?彼にもそれはわからなかった。家に帰るのか。盗んだものを持って?そう、彼は盗んだのだ。それは簡単な跳躍だった。友人の言うとおりだった。それは簡単なことなのだ。
 結局、彼は盗んだそれを、自分の部屋の、机の引き出しの奥にしまった。捨ててしまおうかとも思ったが、それはできなかった。それも恐ろしかったのだ。自分の犯したことの証拠が、誰かの目についてしまうかもしれないことが。それならば、自分の奥深くに隠しておく方が気が楽だった。
 翌日の学校で、彼は前日に自分のしたことを誰にも話さなかった。
 結局のところ、と彼は思った。自分は臆病者なのだ。
考えようによっては、それは自慢げに語るまでもない簡単なことだった、ということもありうるが、彼自身はその可能性には気づいてはいなかった。

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