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辻斬り

 生まれは寒村だった。ひとりとして豊かな者などいなかった。誰もが貧しく、口べらしはかなしむべきことだが仕方のないことだと考えられていた。そこから脱け出すことを夢見るのは必然だった。そこに留まることは、ある意味緩慢な自殺に等しかった。まあ、もしそうでない生き方があればの話であるという見方もできるが。誰もがそこを一度は脱け出そうと試み、それに失敗して、そこを出て行こうという試みに立ち塞がる立場をとるようになった。自分の成し遂げられなかったことを万が一達成されてしまったら、その時にどんな顔をすればいいというのだ。
 百姓に生まれれば、百姓として死ぬのが摂理であると誰もが考えていた。脱出に失敗した者は誰でも。そして子にそう教え、そう生きることを強いた。それでも子供たちはそこを脱け出そうとした。それが摂理なのであろう。
 実際、親たちが子に留まるように言うのには一理あった。そこの人間にできることと言えば、耕すことと死ぬことだけだったのだ。他の土地に行ったところで、どうやって口に糊するというのだ。小さく痩せてはいても、先祖から受け継がれた土地のあるそこ以外で、どう生きるというのだ。
彼は死ぬことで糊口をしのぐことにした。死線に身を置くことで、生きることにした。愚かな選択かもしれないが、なにも選択しないよりはいくらかいい。それもまた選択であったとしても。
 刀を初めて手にしたのと、男になったのはほぼ同時であった。その間に、初めて人を斬ったという経験が挟まれる。なんと簡単なことか、と彼は思った。それは生きることに比べて遥かに簡単だった。鍬を降り下ろす要領で、ただ力一杯それを降り下ろせば、全ては簡単に終わったのだ。彼はとにかく滅多切りにした。もちろん、それは美しい殺し方ではなかろうが、殺し方に美しいも汚らわしいもあるまい。
 彼のような者の重宝する時代だった。誰かが誰かを殺したい、殺すべきだと思うことがしばしばある時代だった。とにかく荒れた時代であった。歴史の寝返りは大きく、それに潰される人は多く、すると人の命など無いも同然だと考えられるようになった。そんな時代だからこそ、彼の故郷のような有り様があったのかもしれないが。すると、彼はその時代によって産み出され、その時代によって生かされたことになるのかもしれない。
 彼はあっという間に有名になった。もちろん、彼の名前がではなく、その残忍な手口、彼の痕跡、傷と死体によって。彼の雇い主に敵対する立場の人々は恐れ戦いた。殺された人間が誰なのかを見れば、次に誰を殺そうとするのか、それがわかるくらいの秩序はあった。もしかしたら、翌日になればその秩序は変更されているかもしれないが、それでも秩序は秩序である。
 初めて人を斬った金で、彼は男になった。女を買ったのだ。その金はそう使うべきだと彼は思った。それもまた、人を殺すのと同様、呆気ないものであった。
 雨の夜だった。冷たい雨の降る夜だ。月の無い夜、そもそも月は厚い雲に隠されている。彼は物陰に潜んでいた。息を潜める。刀の柄を握っている手は凍え、小刻みに震えている。なんのことはない。人を斬るだけだ。夢中になって、気付けばそれは済んでいる。帰って、温かい場所で眠りたい。彼には思想などなかった。彼に命令を下す人間にも、そんなものがあるのかどうかは定かではない。とにかく、彼は言われるままに行動した。種を蒔く季節がくれば、種を蒔くだけだった。それと同じで、殺せと言われれば殺すだけだった。だから、相手がどんな人間なのか、彼は知らなかったし、知ろうともしなかった。彼にとって、それはどうでもいいことだった。彼に必要なのは、その相手の人相と名前だけである。
 足音がした。ぬかるんだ地面を、水を跳ねさせながら歩いている。鼓動が高まる。血の気が引く。強く握った指が氷のようになる。息をさらに潜める。身を屈める。様子を窺う。男だ。顔は笠で見えない。飛び出して行って誰何するか。何も返事をしなかったならどうする?律儀に返事をする馬鹿がどこにいるだろう。斬るか。
 彼はそこに潜んでいた。雨が降っていた。寒い夜だった。彼にとって、それは永遠のようだった。

No.323

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