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賭け

「今じゃタクシーの運転手なんてしてますけどね」と運転手が語り始めたので、これは外れを引いてしまったな、と思った。様々な人間がいるだろうが、タクシーの運転手には黙って目的地まで送り届けてほしいという人間はたいして珍しくもないだろう。しかしながらやっと捕まえたタクシーだ、降りるわけにもいかない、我慢して適当に相づちしてやり過ごそうと思っていたのだった。「学生の頃はちょっと優秀だったんですよ、わたし。就職となると引く手あまたでした。まあ、もちろん今とは違って景気も良かったけどね。それでも、選びたい放題。初任給からかなり良いお給料もらっちゃって、仕事もそんなに辛くなかったしね。いい時代でしたよ。ホント。
 でもね、幸せかどうかってのと、それは別問題ですよ、お客さん。わたしは確かに恵まれていた。しかし、わたしは不満だった。ぬるま湯に浸かってる感じですね。ぬるま湯で育ってきた奴が何言ってやがると思われるかもしれませんが、わたしにはそのぬるま湯が我慢ならなかった。それでね、始めたんですよ、賭け事を。
 最初は連れていかれた競馬です。その頃競馬はすごい人気でね。お客さんも知ってるでしょ。あの馬。そうそう。女の子なんかも競馬場に行っちゃうくらいで、そんな感じでわたしも行ったんです。競馬場。
 でもね、馬のことなんて全然わからないでしょう。だから、まあ好きな数字を適当に買ったわけですよ。もう予想はつくでしょう。ビギナーズラックってやつなんですね、当たっちゃったんですよ。しかも万馬券。もうビックリですよ。で、まあその時のその感触がもう忘れられなくなっちゃった。大金が手に入ることじゃあない。当たることでもない。何て言うか、賭ける、ということそのものですよ。賭けるという感覚。分かるかなあ。いや、わからない方がいい。あのヒリヒリする感覚。賭けるってのは、喪失に身を晒すってことです。別に難しいことを言おうとしちゃいませんよ。賭ければ必ず負ける可能性がある。いや、負ける可能性ばかりだ。しかし、勝つ可能性もある。わずかだけどね。どっちに転ぶのか、そこに身を晒した時の感覚、そして、そこから戻ってきた時の感覚。もっと言えば、失った時の、あのどうしようもない感覚。もう後戻りはできないという、諦めしか残されていない状態。わかりませんよね。それでいい。それがいい。
 完全にのめり込んじゃいましたよ、賭け事に。競馬、競輪、競艇、合法的なものから曖昧なもの、完全に黒のもの。さっきも言ったけど、賭け事は勝つ可能性もあるがそれはほんのわずかです。あっという間に借金漬け、それでもやめられない。もうそうなると、堕ちて行くこと自体が快感ですよ。会社のお金に手をつけてクビになって、その後は職を転々、借金取りから逃れるために方々引っ越ししましたよ。で、今に至る、ってわけです。
 賭け事ですか?やめました。いや、やれないんです。お金無いから。あればそれが無くなるまでやるでしょう。会社の寮で暮らして、食事付きなんですけど、その経費でわたしのところにお金は一銭もきませんから。借金取りの斡旋で入った会社なんです。だから、給料から返済のお金が取られちゃう。ははは。
 でもね、あのヒリヒリはやめられないんです。体が、魂が、あの感覚を求めている。喪失に身を晒すこと、そして、失った時のどうしようもなさ」
エンジン音が高まった。車が加速する。前方にはカーブが待っている。
「よせ」
「お客さん、どっちに賭けます?」


No.281

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