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Bon Voyage!

 桟橋が濡れて黒々としていたけれど、潮は引いていたし、波も穏やかだったので、それは波で濡れたわけではなくて、小雨が降っていたからだ。傘を差すかどうか迷うぐらいの雨。差さないでいると、服は次第に濡れて重くなるけれど、差すのも少し面倒に思うくらいの雨。なんで桟橋のことから話し始めるかと言うと、それは別にわたしが桟橋が好きだからではなくて、彼の顔を見ていられなかったから下を向いていたので自然と桟橋が目に入っていたからで、なぜ彼の顔が見ていられなかったのかというと、見たくなかったからではなくて、本当は見ていたかったのだけど、見ていられなかったのだ。一言で言うならば、乙女心は複雑ということ。
 わたしが彼を好きなように、彼は彼女が好きだったわけで、そうなると「彼女はやめてわたしを見て」とは言いづらいのは、「じゃあ、お前も彼は諦めな」という風に言われたら返す言葉が無くなるからだし、わたしが彼に振り向いてもらえたら嬉しいように、彼もまた彼女に振り向いてもらえたら嬉しいわけで、わたしとしては彼に喜んでもらいたいし、幸せでいてほしいわけだから、つまりそういう風に思うのが好きになるということだと思うから、とにかくにっちもさっちも行かなかったわけなのだけれど、その込み入った状況は解消されてしまったわけだ。悪い結果で。
 彼が彼女にフラれて、全ては終わった。
「旅に出る」と彼は言って、そんな小舟でどこまで行けると思ってるの?と呆れさせられるのだけれど、わたしは彼のそういうところもなんだかんだ好きなので、わたしは何も言えずに、なんだかわからないけど、こうして桟橋で見送ることになった早朝。桟橋の繋がれた小舟には彼の荷物が積み込まれていき、波に揺れて軋みを上げている。低血圧で寝起きの悪いわたしは必死の思いで早起きしたわけだけれど、頭はボーッとしていてもうわけがわからないし、彼の顔を見ていると哀しくなるし怒りが込み上げてくるし、いとおしくもなるわけで、とりあえず雨がやまないかな、なんてことを思ったり、桟橋を仔細に見詰めたりしていたのだ。
 彼は小舟に荷物を積み終えた。
「どこへ行くの?」
 彼は肩をすくめた。
「帰ってくるの?」
 彼は微笑んだ。申し訳なさそうに。
「行かないで、って言ったらどうする」
 彼は困った顔をした。
 そうして、しばらく彼はわたしを見ていたけれど、ヒラリと小舟に飛び乗った。そして桟橋に繋いでいたロープをほどき、海に出たのだ。
 彼を乗せた小舟はみるみる小さくなっていく。
「好きよ」とわたしは彼に向かって叫んだ。「あなたが好き!」
「なに?」と彼は耳に手をあてて叫び返した。「なんて言ったの?」
「あなたが好き!」とわたしは怒鳴った。「だから行かないで!」
「え?」と彼は耳に手をあてている。「波の音で聞こえない!」
「大好きよ!」
 小舟はどんどん遠ざかる。彼は手を振っていた。彼にわたしの言葉が届いたのかどうかはわからないけど、わたしとしてはとりあえず満足だったから、大きく手を振って彼を見送ったのだった。



No.211

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